図書室の向こう


 通っていた小学校が2つに分かれることになり、私を含め団地の子供達が新しい学校へ行く事になったのは小学2年の時だったと思う。
 柿の木畑や荒れ果てたトウモロコシ畑しかなかった場所に突如として現れたその白をベースとした真新しい学校に、元々何か引っ掛かるものを感じていたのは確かだ。
 私は元来とてつもなく怖がりだったせいか、もしくはそれらを見ることで怖がりに拍車がかかったのか、ともかく不思議なモノを見ることがしばしばあった。それは子供が持つある種異様な想像力が生み出したただの幻覚だったのだろうと思う。だが「ヘンなモノ」はよく見たのだ。黒くてヒラヒラしたモノが多かったように思えるが、その他には誰もいない部屋で自分以外の何かの気配を感じたり、巨大な虫のようなモノが冷蔵庫の横を這って行くのを目撃したりもした。
 そして新しくできたあの小学校でも、「ヘンなモノ」をしょっちゅう見かけた。大抵はやはり、黒くてヒラヒラしていたモノだったと記憶している。
 私がその学校で一番嫌いだったのは、2階の一番東にある図書室であった。その図書室は多少ニスの匂いが鼻につくものの、暖か味のあるフローリングに木の本棚、明るい照明、冬になれば暖房がはいり職員室と同じくらい暖かく普段私達生徒が勉強している教室なんぞよりずっと居心地が良かったろう。南北両側に窓があり大抵は日差しが心地よく、そして何よりも新しいのだ。
 それにも関わらず、私はこの図書室が恐ろしくてしょうがなかった。
 断っておくが、最初に書いたようにこの小学校は元々畑であった。畑の前は何があったのか知らぬが、墓場だったり火葬場だったり、学校建築の最中に人が死んだりなどという話は全くない。この新しい小学校に違和感を覚えていた生徒は、多分私だけだったろうと思われる。それほど新しく、綺麗で清潔で、太陽もよく当たり何の問題もない学校だったのである。
 図書室を恐ろしく感じていたと言っても、それは我慢できる程度の恐ろしさであった。そして不思議なことに、私はその図書室に一歩踏み込んでしまえばかなり楽しく時間を過ごせたのである。
 ようは、子供であった私はその図書室の入り口に何かしらの境界を感じていたのであろう。その境界がどんなものであったのか分からない。そもそもそんな境界は無かった可能性が高い。きっと幼い「私の中」にだけ存在する境界であり、私はその種の「境界」が気になってしかたなかったのだ。
 それと、私は図書室にいる男性職員にも恐怖を感じていた。彼の名はもう忘れてしまったが、痩せていて背の高い男だったと思う。恥ずかしながら無知な私は未だに彼の職業名を知らぬのだが、とにかく何をするわけでもなく小学校の図書室にいる人だ。その人が、とにかく怖かった。別段強面だったわけでもなく怒りっぽい人だったわけでもない。何の問題もない普通の大人だったような気がする。しかし私は彼が怖かった。その図書室と同じ恐怖を、彼にも感じていたのだ。
 私が彼と図書室に感じていた恐怖を説明するのは難しい。何せ昼間でも、どれだけ回りに友達がいようとも、彼と図書室に近づくのが嫌だったのだ。運動場から校舎を見上げた時ですらなるべく図書室は視界に入れぬよう無意識に気を使ったりしたほどである。本能的に彼と図書室に怯えていたと言えば一番しっくりくるのかもしれない。しかし、1度図書室に入ってしまえば平気だという何ともおかしな怯えではあるが。

 私は霊感が強いわけではないと思う。人魂や幽霊などは見たことがない。しかし自分とは合わない場所、モノ、存在、ようはあの図書室のような場所に異常なほど敏感であったことは確かだ。

 それは、多分小学3年か4年の頃に起きた。
 あの時は確か秋の読書週間で、毎日朝と夕方の15分間読書の時間が設けられていた。私は普段それほど本を読まなかったが、秋の読書週間の間に最低1冊は本を読まなくてはならず、また感想文などというやっかいなものまで書かなくてはならなかったのでかなり真剣に一冊の本を読んでいた。女の子とネズミが学校の放課後に友好を深めるといった内容だっと思う。
 あの日の帰りの会…つまりホームルームの間の15分に本を最後まで読み終えた私は、その後次の本を借りに図書室へと向かった。ネズミと少女の話はとても面白く、この作者が書いた別の本を読んでみようと思ったからだ。恐れていた図書室に一人で行った理由は、学校が変わってから1年以上経ち、この学校の「図書室」に少し慣れてきていたことと、その頃は一人でいるのが好きだったこと、秋の読書週間で図書室に生徒が沢山いたことだろう。
 図書室はその日も暖かかった。南の窓からは夕日が差し込み、低学年から高学年の生徒たちがそれぞれあまり広くもないこの図書室で本を選んでいる。
 私は最低一冊というノルマを達成していたので焦って本を探す必要もなく、また元来酷くとろくさい部分があるという理由で、ネズミと少女の本を書いた作者を探すのに随分と手間取っていた。図書委員や例の男性に尋ねれば良いものの、当時は人と話すこと事体苦手だったためずっと一人で探していた。面白そうなタイトルの本を手にしてみて挿絵を探してぺらぺらと捲ってみたり、分厚い本を持ってみて重さを確かめ変に感心してみたり、とにかく図書室をウロウロとしていた。
 そんなに長くいた覚えはない。 しかし気がついた時、周りに人の気配がなかった。
 しんと静まり返った図書室に響いていたのは、暖房の低い音。校庭で遊んでいたはずの生徒の声もせず、ただ南の窓から薄っすらと夕日が差し込んでいるだけだ。
 私はそこで、急激に頭が醒めた。何と言えば一番しっくりくるか分からぬが、とにかくその時誰もいない図書室を見渡し、突然「今のこの世界の状態」を本能的に理解したのだ。そして、それと同時に頭と心がやけに沈みこんだ。そこには恐怖心も興奮も何もない、極めて冷静な自分がいたのだ。もしその時目の前に鏡があれば、真っ青になりつつも肝の据わった目をしている私の顔が見れたであろう。
 手にしていた本を元に戻し、そっと本棚の影から貸し出しカウンターを見てみると、そこには誰もいない。音が鳴らないよう気を使いながらランドセルを背負い、そして息を殺して図書室を出ようとゆっくり歩き出した。
 しかし私の目に飛び込んできたものは、夜中のように真っ暗な長い廊下だったのである。
 図書室の南の窓からはまだ薄っすらと夕日が差し込んでいる。確かに廊下の南側は教室があるので光は届かぬであろう。しかし廊下の北側にある窓からも一切光が差し込んでこないのだ。私は廊下に出るのをかなり躊躇った。この図書室に留まっている方が、絶対的にマシだと思えたのだ。ただ、問題はもう夕日が沈もうとしていることとこの図書室にいる例の男性のことだった。今あの男性が来たら…そう思うとさすがに怖くなった。
 何故誰もいないのか、何故廊下が真っ暗なのか、廊下の電気が消えているのか、それらのことはその時の私にとってどうでも良いことだった。何故ならば先ほども書いたように、私はその時「今のこの世界の状況」を本能的に理解していたからだ。大事なのはそんなことではない。この図書室から出るか、出ないか、それだけなのだ。
 そして私は、息を止めて図書室のドアから廊下に出た。

 やけに暗くやけに静かな廊下に出た瞬間から、私は心に決めたことがあった。それは「振り向かない」ことと「鏡を見ない」ことだ。そうした方が良いと感じたのだ。
 廊下の北側に並んでいる窓に視線をやると、確かにそこには薄く赤色に染まった雲が見える。しかし、この長い廊下だけは本当に真夜中のように真っ暗だった。
 後ろの図書室からは光が漏れている。そして、長い廊下の一番端の教室からも光が漏れていた。廊下を少し歩けばすぐ右手に階段がある。その階段まで行く間のほんの数歩の間に、光が漏れる西の教室のドアが開く音がした。私は好奇心、もしくはただの勘からか開いたドアから何が出てくるのかを見定めようとした。
 その教室から出てきたのは、全身が光に包まれている不思議な子供だった。髪は短く短いズボンをはいていたが、私と同じ赤いランドセルを背負っているので女の子のようだ。その子は教室から出るとドアを閉めずに1度ランドセルを大きく揺らして背負い直し、クルリとコチラを向き、そのまま真っ直ぐ私が立っている方に向かって歩き出した。だが彼女が私を見ているとはとてもじゃないが思えない。もしかしたら、いやほとんど絶対と言って良いほど彼女には私が見えなかったと思う。
 こちらに向かって歩き出したと言っても校舎の端と端だし、周りは真っ暗し彼女はキラキラと輝いているしで彼女の顔は全く分からない。ただ私は、どこか彼女に懐かしさを覚えていた。
 彼女は真っ直ぐこちらに向かってくると思いきや、数歩進むとすぐにまた向きを変えそのまま西階段の方へ消えていった。私はそれまで呆然としていたのだが、彼女の身体が壁に隠れその光がゆっくりと消えていくのを見てはっと我に帰り、自分の右手にある、真っ暗な東階段を見た。
 その時の私には二つの選択があった。このままこの東階段を降りるか、彼女の後を追うか。
 目の前の階段は暗いだけではなかった。そこにあるのは闇だ。ただしこの東階段を使って一階に行けば、下駄箱はすぐそこだ。もしあの少女を追いかければ、この廊下の突き当たりまで歩いてそこから西階段を降り、一階に降りた後に更にもう一度東に戻らなくてはならない。
 私は一瞬躊躇ったが、すぐに彼女を追いかけた。東階段はとてもじゃないが降りられないと思ったのだ。それほど異様だったのだ。
 階段の途中で立ち止まっているのか、西階段に消えた少女の光は消えそうでなかなか消えなかったので私はあえて歩いて西に向かった。走り出したら後ろから何かに追いかけられそうな気がしていたのだ。左手に並ぶ教室の窓に薄っぺらい黒い物体がベタベタと張り付いているような気がし、右手にある夕日が僅かに差し込む窓の外だけ眺めて私はなるべくゆっくりと歩いて行く。教室の方から何か聞こえた気がするが、私はその声を絶対的に無視した。聞こえていないふりをし、そちらを見ようともしなかった。
 怖かったのか怖くなかったのか、よく分からない。ただ私としては、「怖いもの」と「怖くないもの」という分類ではなく、あの時は「良いもの」と「良くないもの」の分類で行動していたような気がする。東階段を降りるのは「良くない」で、少女を追いかけて西階段を降りるのが「良い」と。
 西の階段に近付いた時、少女が出てきた一番端の教室の電気が消えた。普通に、誰かがパチンとスイッチを押して電気が消えるように音もなく消えた。その時運悪く私はトイレに差し掛かったことろだった。右はトイレ、左は真っ暗な教室。どちらも見たくはないのでしょうがなしに俯いて歩いた。教室の窓ガラスには、やはり押しつぶされたような人間の影がベタベタと張り付いているように見えた。
 無事トイレを過ぎ西の階段に差し掛かると、丁度少女が踊り場を回った所だった。私が廊下の一番東から一番西まで歩いて来たのにも関わらずだ。
 トイレの前を通り過ぎた時から、私は妙に汗をかいていた。長袖のシャツはベットリとした汗で肌に張り付き、それが何か別のものに触れられているようでまた嫌な汗をかいた。空気は全く動いておらず、夏の雨の日のように湿気が多い。
 無駄な動作を絶対に行いたくなった私は、額の汗を拭わずに輝く少女を追って西の階段を降り始めた。深い海の中で光るクラゲのように彼女は発光を続けていた。階段はいつもよりも少し格差がないような気がした。ようは、一段一段が浅いのだ。そんな階段を気にしつつも私はゆっくりと降りていく。階段には窓がないので彼女が残してくれる光だけが頼りであり、私の後ろからは暗闇が迫っているようだった。
 踊り場を回って見ると、丁度少女が一階に着いたようでまた見えなくなったところだった。ほんのりと足元が暗くなるのに気がついて、私はまた階段を降り始める。途中で無意識に階段の数を数えているのに気がつき、慌てて、しかし誰に見せるわけでもないのに全く慌てた表情など浮かべず他のことを考えた。今週の図工の時間に絵の具を忘れて担任の先生に嫌味を言われたことなどを。
 一階に到着すると、右手から光が差していた。目の前が教室なのでそこは視界に入れず、私は器用に視線を動かして光の差し込む方向を見る。
 そこは、普段生徒は使わないようにと言われているガラス戸だ。地震の時などはここを開けて表に出ることになっている。普段も休み時間などは開けているが、生徒はここから外へ出てはいけなかった。多分、上履きで外へ出てはいけないからだろう。何せこの学校には下駄箱がひとつしかなく、そのひとつはここと正反対の東側にあるのだ。
 ガラス戸の向こうは駐車場で、その向こうに山と赤い空があった。私は少しだけガラス戸に近付き空を見上げ、その赤い空に随分ほっとしていた。そこには通常の世界があったからだ。
 そういえば、あの少女はどうしたろうか。
 そう思い振り向いた瞬間、今まで自分で抹殺していた恐怖が一気に溢れ私は悲鳴を上げることも忘れてその場に立ち尽くした。
 彼女は、階段を降りていたのだ。一階より、更に下に続く階段を。
 この学校に地下などない。この階段はこの一階で終わりのはずなのだ。スンと鼻が鳴る音で自分が泣いているのに気がついた。私は後も先も恐怖で泣いたのはこの1度っきりだ。失禁しそうにもなっていた。
 少女はどこかに続くこの地下への階段を下り、踊り場を回ろうとしていた。その横顔が視界に入りそうになった時、私は慌てて西のガラス戸に向かって走り出し鍵を外して戸を開けた。外の空気を感じ、足を一歩外に出そうとした時だ。私の身体がガクンと揺れ後ろに倒れそうになった。思わず手を伸ばしてガラス戸の端を掴み腕に力を入れるともう一度後ろに倒れそうになり、私は自分でも聞いたことがないほどの悲鳴を上げた。
 ランドセルを、何かが引っ張っているのだ。
 自分の声だけが頭の中に響き夢中になって身体を振った。絶対に振り返りたくはなかった。そうだ、最初に振り向かないって決めたのにさっき彼女のことを思い出して振り返ったからだ。だからこんなことになったのだ。振り向かないって決めたのに!
 私はあらん限りの声を出しながら肩を捻ってランドセルを外し、そのまま外に飛び出して一気に走り出した。
 振り向かないって決めたのに! 振り向かないって決めたのに! 振り向かないって決めたのに!!
 ずっとそう叫んでいたような気がする。とにかく学校の裏門を超えてもそのまま走り続け、団地の方には帰らずにそのまま母の勤め先まで走った。母の顔を見てもまだ涙は止まらず、後ろを振り返ることも出来なかった。何を訊かれても何も答えることができなくて、でも母にどれだけ怖かったのか、どれだけ危険な目に合ったのか伝えたくてずっと泣いていた。
 母の勤め先から家に帰る途中で母が上履きのことを訊いてきた。私は学校で靴を替えてないので上履きのままだったのだ。でもまだ私は何も言えなかった。

 家に到着すると、不可解な事が起こっていた。
 私のランドセルが机の横にぶら下がっており、そしてテレビは土曜日のアニメを放映していたのである。私はまた泣き出し、泣きながら新聞を見た。
 その日付は確かに土曜になっていた。
 あの日は確かに金曜だった。私は給食を食べたし掃除もしたし5時限目まで授業を受けたし、その5時限目の授業内容だってちゃんと覚えている。
 何が私に起こったのか。それはいまだに分からない。

 後年になってこの出来事を思い出すと必ず背筋が寒くなる。
 それは決して「私のランドセルを引っ張った何か」のことではない。
 あの少女のことだ。
 あの少女に付いて行って、地下の階段を降りて行ったらどうなっていたろう。いや、それももうどうでも良い。
 問題は。

 問題は、あの少女の後姿が私に似ていたことである。




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