迷宮物件 FILE538.5
井桁屋でバイトを始めた僕がそのアパートの住人に興味を持ったのは、あの記録的な大雪が降った日だった。あの日は未明から降り続けた雪で原付に乗れず出前は全て徒歩だったのだが、徒歩で配達出来る範囲で、と言う条件だったにも関わらず、かなり忙しかったことを記憶している。
岡持ちを持った手や顔に風が突き刺さり、僕は終わらない出前に少し途方に暮れながら町を歩いていた。親子丼と牛丼、天麩羅蕎麦等が入った岡持ちを下げて、一晩で膝の高さまで積もった雪を尻目に誰かが除雪した車道を歩いていると、今日はそこそこ注文があるだけだろうと高を括っていた僕を嘲笑うかのような出前の嵐に昼からまた降り出した雪と強い横風が、受験生でありながら家族の猛反対を押し切り、その口実に使った受験費用や春から始まるであろう新生活等の為では断じてなく非常識にも実は特に何の理由もなく始めたこのバイトを否がおうにも後悔させた。
井桁屋とその付近の住宅の往復を何度繰り返しただろうか。
雪の降る日は太陽の位置で時刻を計ることは難しく、とにかく肌が剥き出しになった部分の感覚が極寒地の植物のようにほぼ完全に途絶え始めた頃、あのアパートの注文が入った。
注文はいつもと変わらない。
ざるそば大盛りととろろうどんの二品だ。
井桁屋の主人が奥の座敷に向かい草履を脱ぎ一種の執念を感じさせるほど使い込んでいる客用座布団の上に座ってスポーツ新聞を広げたのを、ざるそばととろろうどんが入った岡持ちを手にした僕は目の端で確認し、左手で立て付けの悪い引き戸を引いて外へ出た。彼はこれからスポーツ新聞のプロレス記事を読むはずであり、そして蝶野の記事があれば、料理を作っている彼からは想像を超える几帳面さと丁寧さでもってそれを切り抜くであろう。そしてプロ野球の記事に一通り目を通し、最後に競馬欄に移るはずだ。それが終わると他の芸能人ゴシップ系には目もくれずあのスポーツ新聞は乱雑に四つ折りされて座敷の手前に放り投げられ、彼はテレビのスイッチを点けるつであろう。
つまりだ。つまり、今日の昼の出前はもう終わりを告げたというわけだ。
そんな理由から僕の足取りは僅かに軽かった。先の見えない労働程辛く厳しいものはないだろうが、その日の労働の終了が近づいたことを僕は知ることが出来たのだから。
店の前の道から適当な除雪しかされていない小道に入り、僕はそのアパートへ向かった。日が出ている時刻だと言うのに行き交う人の影はなくどことなく元旦の朝のような静寂が町を包み込んでおり、それがまるで幻影の町のように錯覚させるのだが、時折どこかの家の台所から聞こえる食器を洗う音がかろうじで町を現実として容認している。しかし少し前まではスコップを両手に暑苦しそうなジャンパーを羽織り雪かきに精を出す婦人や老人、車が雪だまりに嵌り立ち往生している男性等を見かけたのだが、それらの人々は忽然を姿を消したようであった。
問題のアパートは井桁屋から徒歩で出前をするにはギリギリの位置にある。徒歩で行けるので、近いと言えば近い方なのかもしれない。小道に入ると少し先がT字になっており、そこを右に曲がると去年閉鎖した島田製鉄所の裏手に出るので、その裏道を更に進む。ここらは雪かきをしたという形跡はほとんどなく、誰かが早朝に雪を分けて進んだと思われる跡から外れないように歩くのだ。ここを通る度に毎回見ることが出来る廃屋の平屋の家の塀にいる三毛猫もこの日はどこかで暖を取っているのかその姿はどこにも見られず、僕はひたすらとそのアパートに向けて歩き続けた。
そのアパートについては少し説明がいるだろう。
真冬にざるそば大盛りを頼むそのアパートの住民の顔を僕は今まで一度も見たことがないのだが、それは見る機会がなく必要もなかったからに他ならない。
そのアパートはかなり痛んでいる古い木造建築で、入るとまず埃にまみれた玄関がある。そこで靴を脱いで上へあがる、つまり古い下宿形式のようで共同玄関になっているわけだが、僕はこのアパートの住民は彼等しかいないだろうと踏んでいるし、それは間違ってはいないはずだ。玄関に散乱している靴の数からするとそれはこの崩れそうな建物には思った以上の住人がいるのではと予測せざるを得なくなるのだが、そう、それは実際違うのだ。何故ならその思うがままに散らばった靴やサンダル達は僕がここに初めて配達した時から、いや、きっとその時よりもずっと以前から既に時間を止めており、ピクリと動く気配すら感じられない。郵便受けはどこもビラやチラシで一杯になっており、扉上方にひっそりとはめ込まれている擦りガラスの中から光が漏れているのを見たことがない。第一、空気が動いていないのだ。忘れられた空間の如く、そのアパートは時間の流れを止めたまま静かに朽ち果てる寸前で留まっているのである。当然のようにアパート内で、いやその付近でさえ僕は誰か他の人間と擦れ違ったことはなく、郵便配達人すら見かけたことがない。
ともかく、そこはどう見てもどう考えても、彼等しか残っていないアパートなのだ。
では、何故彼等の顔を見たことがないのか。
その答えは簡単だ。5とほとんど剥がれかけたペンキで書かれたドアの前に行くと、毎回きっちり千円札一枚と十円玉2枚が置いてある。僕はそれを手にし、岡持ちをそのままそこに置いて行く。何せ消費税込みの金額がキッチリそこに置いてあるのに、そこに突っ立ってわざわざ彼等の顔を見てから帰る、というのも何だ。来ましたよ、という合図は勿論する。扉をノックして「井桁屋でーす」と感じの良い声を出すのだ。初めてここに出前した時は少し待った。何せ品物をちゃんと受け渡しするべきだと思ったからである。しかしいくら待っても彼等は出て来ず、そのうち品物も冷めはじめ、僕は文句を言われる前に退散したのだ。大体、余計なことはしなくて良い、と井桁屋の主人に言われている。彼が彼等とどんな関係なのか、もしくは実は関係と呼べる程の接触はないのか、しかし店では冬場にざるそばは出さないはずなのに彼等にはこうしてこっそりと配達するのは何故か。それは分からない。
僕は彼等、と呼んでいるが、5号室の住民が男なのか女なのかは知らない。室内はいつも静まり返り、捕食動物に狙われ続ける野生動物のように気配を殺している。僕はそこを後にし夕方岡持ちを取りに来るだけだ。そして勿論、その時もこの部屋の中からは気配を感じない。
朽ち果てる寸前に見える木造アパート、歩かずとも少し体重のかけかたを変えただけで床が軋みそうなものだが、それすらない。
岡持ちを持った僕は今、そのアパートの前にいる。アパートの手前の右手には猫の額ほどの児童公園があり、今は雪で覆われているが本来ならばその極端に狭い児童公園に作られた野良猫の巨大な便所と化した作りかけのような砂場が見えるはずだ。その他の器具は一切ないし、きっと必要もないだろう。ここで遊んでいる児童を僕は一度も目にしたことがないのだから。アパート手前の左手には、ここも今は雪で覆われているのだが、本来は酷く不健康に伸びきった雑草と廃車が何台か放置された空き地がある。この道の行き止まりがこのアパートであり、このアパートの向こうは海だ。きっと眺めは最高だろう。
僕はアパートに進入すると靴を脱ぎ、床が軋む階段を一歩一歩慎重に…慎重にならざる得ないのだが…上り、その部屋の前に辿り着く。そして普段と何一つ変わらぬ動作で岡持ちを廊下に置き、そこでひっそりと僕を待っていた千円札一枚と十円玉二枚を手にし、無感動にそれを仕舞い込む。
そこまでは何ら変わらぬいつもの配達であった。
しかし、事態が急変したのはそのすぐ後だ。
物音がしたのである。
カタン、と、何かが床板に落ちる音が、確かに僕の耳に届いたのである。
それまでこの不思議な住民にさほど興味を覚えることもなく、いやむしろ何か予感めいたものがこの住民に興味を示すことを拒否しその警告に無意識に従っていた僕が、この音で急速に何かに目覚めた。まるで「興味を持ってはならない」と暗示をかけられていたのに、突然その暗示から解放されるように。もしくは短縮されたとても奇妙な夢から覚めたように。
僕はその部屋の扉に張り付き耳を当てた。しかし物音はもうしない。僕は暫くその場で思案し、そして意識して足音を立てその場を離れた。
階段を下りる。
ミシ、ミシっと音がなる。
そして階下まで行くと裸足のまま立て付けの悪い玄関を開ける。
玄関の引き戸に手をかけたままそっと振り返ると、誰もいないそのアパートは沈没寸前の無人船のようだった。誰もいない。誰にも気付かれない。廊下の先にはそんな時間と空間が僅かに冷笑を浮かべつつ僕を見据えているようであり、二階に伸びている階段は日中にしてはあまりにも暗い闇がそこに佇み沈黙を守っている。それは、ざるそば大盛りととろろうどんを配達し終わったにも関わらずここに留まっている僕を、さりげなく、しかし極めて強く拒否しているように思えた。
が、しかし僕は引き返した。
あの時、あの部屋の住人を見たいという僕の衝動を抑えることは誰にも出来なかったに違いない。僕の好奇心はそれほど強かったのだ。
物音を立てず、しかし迅速に僕は階段を上った。奇妙な事に普段なら必ず音を立てるその階段はまるで僕を迷宮に迷い込ませるが如く静寂を保ってくれた。階段を上りきると、僕は壁に張り付き、まだそこに置いてある岡持ちをそっと眺める。
孵化したばかりの子蜘蛛の足音さえ聞き逃すまいと、身体中の全神経を耳に集中させる。
その部屋の扉が開いた。
一本の細く小さな腕が伸び、岡持ちを持ち上げて部屋の中へ消えた。
それは間違いなく、子供の手だった。
新学期が始まっても僕が学校に登校しないようになったのはそれが理由だ。君も知っての通り僕は学校というもの、場所、存在をかなりの勢いで嫌悪していたし、周囲の余計なお世話に他ならない助言やら説得やらにほとほと疲れきり、それから逃げるという理由で大学へ進学するはめに陥っていたのだが、受験勉強なんてものは鼻からするつもりはなかったし、しなくて済む程度の、今の僕に合った程度の大学に進学しようとしていた。それまでは何か問題を起こすわけでもなく適当に生きて周囲のこうるさい大人達から逃げていようと。
しかしだ。
僕はその日から、あの部屋の住民に激しく興味を持ってしまったのである。魅了された、と言っても良い。
朝から晩まで僕はあのアパートへ張り込み、目の前で起こるかもしれない何かを待った。何か予感めいたものがあったのだ。それは適当に日々を送る高校最後の生活とは比べようもないほど強く僕をそそった。
それから今日まで調べ回り、あの部屋の住民について僕が分かったこと。
まず、住民の一人は子供。これは確定している。
夜になると電気を灯すが、八時を回ると寝てしまう。
便所と風呂に入っている様子はない。これはあのアパートを少し調べれば分かることだ。空き部屋ばかりのボロアパート。僕はあの部屋の隣の部屋に忍び込んでみたが、いや、念のために全ての部屋を調べてみたが、どの部屋にも便所はないのだ。一階の奥にもう随分長い間使われていないと思われる…何せ水が流れない…共同便所があるだけだ。ならば彼等、もしくは彼女等はどうしているのか。答えは簡単だ。風呂は数ヶ月から数年入っておらず、排泄は外でしている。何せ窓の外は海なのだから、窓を開ければ済むことだ。
ここで君はもう一人の住人の性別を予想出来たろう。女性ならいくらなんでもそんなことはしない。多分あの子供と一緒に暮らしているのは、男だ。父親と断定しても良いかもしれない。
しかし僕はこの父親らしき人物の声を聴いたことがない。夜、たまに、本当に極稀に聴こえてくる声は子供の笑い声だけで、何か会話らしき声も耳にしたことがない。そしてこの父親らしき人物の職業すら、特定できなかった。
職業すら。
いや、実際は名前すら特定できなかった。
このアパートには郵便物が何も届かない。いやそれどころか、電気やガスの検針員すら訪れることがないのだ。
例えばこの父親らしき人物が動くこともままならない病人だとしよう。国から補助を受けて生活しているにしても、その補助金を受け取るには何処かにその足で行くか、もしくは誰かと何らかの接触がなくてはならない。しかしそれすらないのだ。あの子供すら、あの部屋から出ようとしない。
いや接触はある。唯一の接触が昼夜と出前をする井桁屋だ。
勿論井桁屋の主人にも訊いてみた。それは最初に行った。だがしかし、今君が予想したように、主人は何も知らなかった。もしくは知らないふりをした。
僕の今の興味はあの部屋の住民だけだ。それしかない。
受験だとか学校だとか、そういうものはそもそもどうでも良かったのだ。
僕は明日、海側からあの部屋を覗いて見ようと思う。海へ入り岩場を伝いアパートへよじ登る。配管を上って縁に沿ってあの部屋の窓から。
「と、ここで終わっているわけですわ」
子供が貼ったシールがありそうな箪笥をどことなく思わせるその古く白いテーブルの上に置かれた珈琲カップに手をかけ、槙は向かいに座っている灰村に視線を投げた。
町の外れにあるこの喫茶店にはウェイトレス等と呼べる若く愛くるしい女性は見当たらず、カウンターに座って煙草を銜えながらワイドショーを見ている店員と、窓際に座っている槙、灰村、この三人だけだ。
ソレを読み終わった灰村は、白いものが混じった不精髭を撫でながら大きく溜息を吐き、もう一度ざっと初めから目を通した。それからソレをポンとテーブルの上に置き、まだ温かい自分の珈琲カップに手を伸ばす。
「で?」
喉を潤し、灰村は訊ねる。
「いやね、僕はずっと不思議だったわけですわ。ここ数年、こんな狭い町の中で決まってこの時期に行方不明者が出る。しかも消えた人間は誰一人として戻って来ない。実はこれって事件なんじゃないかって思いましてね。と言うか、何故今まで放置されていたのかも分からんくらいなんですけど」
槙の言葉に灰村が冷笑する。
「お前、日本全国に家出中の受験生が何人いると思ってる。日本全国に行方不明者が何人いると思ってるんだ。狭い町って言うけどな、ここは案外大きな町だ」
槙は少し黙り込み、手に持ったままの珈琲カップを古びたソーサーの上に置いた。
「でも僕は偶然とは思えんのですわ。それで、僕は今年の行方不明者である、この子を調べてみたんです」
「で?」
普段行動力のない、というよりも仕事をしようとする意思をほとんど感じさせない槙が発したこの言葉が余程意外だったのか、灰村は視線を上げて槙を凝視しつつ話を促した。
「おかしいんですよ、本当に。そこで灰村さんに話を聞いてもらおうと思って」
槙は困ったように大きな息を吐き、口元をポリポリと掻いた。
それから話を始める。
「まずね、僕は今年の人身御供である…ああ、これは僕がこの件を追いながら考えた言葉です。毎年決まった時期に行方不明者が出るなんて人身御供みたいだから。で、今年の人身御供である彼の家に行って話を伺ったんですけど、家人はやっぱり家出だなんて思ってないんですわ。まず理由がない。そりゃ確かに彼は学校嫌いだったようですし、進学も彼の意思ではないようです。しかし彼は、上京することだけは非常に楽しみにしていたみたいなんですよ。思うに、彼は口うるさい大人がいない全く別の土地、都会で生活することだけは本当に楽しみにしていたんじゃないですかね。何せまだ若いんだし。
僕は家の者に頼み込んで彼の部屋を見ましたけどね、本当に家出する気配なんぞないんですわ。ベッドの上にはエロ本なんぞ置いてあるし、カレンダーにはジャンプ発売日にマルが書き込まれてる。それどころか借りたばかりのレンタルDVDまであるんですわ。こりゃいよいよおかしいと思って彼の鞄を探ってみれば、今灰村さんに見せたソレが出てきたわけでして。
僕は興奮しましたよ。ここ数年の行方不明者の死体がこのアパートのその部屋の中に転がってるじゃなかろうかってね。勿論その足で見に行きましたわ。なのにね、灰村さん。なのにそのアパート、ないんです。海なんですわ、その場所」
「……海?」
「ええ、海なんですわ。そこ。井桁屋も実際にあるし島田製鉄所の裏道もある。その裏道を通って行くと平屋建ての小さな廃屋の塀もあるし、そこを抜けると児童公園もある、廃車が放置されてる空き地もある。でもそこで終わりなんですわ。アパートはないんです。その先は海なんです」
槙は一度口を閉じ、頭の中で話を纏めてまた口を開く。
灰村は黙って槙の話を待つ。
「何だこりゃって話になりますわな。そんで僕はまた彼の家に戻って話を聞いてみたわけなんですが、彼は実際に井桁屋でバイトをしてたそうなんです。でもアパートはない。それじゃこれは彼の創作かってなるじゃないですか。でも僕は、一応彼の友人達にも話を聞いて回ったわけなんです。彼は軍事オタだったようで――」
「――ちょっと待て。軍事…オタとは何だ」
灰村の質問に槙は少し苦笑した。しかしすぐに答える。
「オタクですよ。オタク。彼は軍事オタクだったんですね。彼の部屋にはそれ系統のプラモデルやら専門書やらがありましたし。それでとにかく、軍事オタばかりの彼の友人にいろいろ訊いてみたんですけど、やっぱり彼は家出をする素振りを見せなかったし、そもそもそんな根性のある子ではないらしい。バイト先で何かあったようでもなかったし、暫く学校を休んでいたということもないそうなんですわ。じゃあソレは本当に創作だったんだって」
「まあそういう結論になるわな」
「ええ。彼は、話のネタに自分のバイト先を選んでソレを書いていたに過ぎない」
槙は両肘をテーブルの上に乗せ、左手で額の髪の生え際を掻く。四十を越えた年齢の灰村とは違いまだ二十代後半の槙だが、明らかに槙の方が小汚い。いつもどこかをポリポリと掻いているが、灰村はこの男が嫌いではなかった。顔の作りは良い方だし、ムラはあるもののかなり頭の回転は良かった。清潔でさえあれば、かなり女性にもてたであろう。
「でもソレが創作だった、というオチだったら、お前は俺を呼んで話を聞かせたりはしない」
灰村はそう言って話を促す。
槙はゆっくりと頷き、いつも冷静沈着の灰村に僅かに笑みを見せた。
「そうなんです。そこで僕も、こりゃまぁ迷宮入りや!と、いつもの適当さでこの件はほっぽり出す…つもりだったんですけど、まぁ最後に一応ってことで、井桁屋に行ってみたわけです。したらね、その井桁屋、僕が訪れる前日に火事で燃えたっていうんですわ。主人もろとも」
「偶然に」
「そう、偶然、僕が訪れる前日に店が燃えて主人は虫の息。こりゃもう偶然。本当に偶然。偶然すぎて逆に怪しい」
「で?」
「で、僕はちょっと聞き込みなんて刑事らしいことを珍しくやりましてね。近所をぐるぐると、野良犬のようにぐるぐると回りながらその辺のオバチャンやオジチャンなんかをとっ捕まえて警察手帳なんかも見せつけたりして、話を聞いて回ったんです。ねぇ灰村さん。そしたらおもしろいことが聞けたんですわ。ビックリですよ」
槙はそこで話を区切り、背筋を伸ばし小さな深呼吸をする。灰村の背後の壁には何年前に貼られたのかも分からない大きな乳房を片手で隠しただけの女性のポスターと、京都の大文字焼きの写真が使われたカレンダー、その他には薄く埃を被った写真のない写真立てがある。
灰村は黙ったままそんな槙を眺めていた。
深呼吸が終わった槙は元の姿勢に戻り、灰村を覗き込む。それから少し身を乗り出し、灰村に顔を近づけ、まるで睦言を口にする女のように不思議な笑みを浮かべて呟いた。
「ホントにビックリですわ。近所の住民の何人かは、そのアパートが実在すると思ってるんです。見たことがある、あると信じている。あるという前提で僕に話しをする」
灰村は槙の笑みを見つめたまま眉を顰めた。
「では、あったんじゃないか。過去に」
「調べましたよ。役所や図書館なんて所に行ってみたりしてね。どの年代の地図を見てもどこを探しても今も昔もあそこは海です。過去にアパートが建っていて、ある日突然それが崖崩れを起こして忽然と姿を消した、なんてことはありません。ないんです。地図の記載によると、そこは」
槙は口を閉ざす。
喫茶店のテレビからは芸能人の婚約記者会見の模様をボソボソと伝えていた。
「そう、地図の記載によればそこは過去も現在も――海」
槙の言葉がハッキリと灰村の耳に届く。
喫茶店の店員が立ち上がり、丸椅子に上ってテレビのチャンネルを変えた。どうやら芸能人の婚約記者会見には飽きたようだ。
灰村はまだ眉を顰めたまま槙を見つめていた。
「どう思いますか灰村さん。毎年決まった時期にでる行方不明者や消えた受験生のことじゃなく、ないはずのアパートをあると思い込んでいる人間が実際に何人もいることについて」
灰村は黙り込んだまま視線を落とした。それから残っていた珈琲を飲み干し、俯き目を瞑って無精髭を撫でた。
槙は不意に立ち上がり、小汚いハーフコートのポケットの中から小銭を取り出して店員が座っているカウンターの上に置いた。店員は軽く頭を下げる。
「出ましょう灰村さん」
槙に言われ、灰村は目を開けて立ち上がりコートをはおる。
外はもう日が暮れかけていた。しっかりとした足取りの灰村の隣で、槙は寒そうに肩をすくめ、強風に煽られる度によろめきつつ歩いている。
「あったのかもしれないな」
灰村が呟く。
「そのアパートですか?」
「ああ」
「地図に記載されないアパートですか? 僕は最初にこの目で確かめましたけど、確かにそこは海でしたよ」
「いや、現実には存在しないアパートだ。誰かの記憶の中にしか存在しないボロアパート。もしくは何の疑いも持たない人間の前にしか現れない木造建築ボロアパート」
灰村の言葉に槙は僅かに微笑んだ。そして、灰村に身を寄せ、ドンと、わざとらしくまるで子供が仲の良い親友にするようにぶつかる。
「何だよ」
「いやー、灰村さんがそういうこと考える人だとは思わなくて。ちょっと驚くってか、嬉しかったですわ。実は僕もそう思ってたんです。誰だって自分ん家の近所にある建物が実際に存在しているのかどうかなんて疑いを持つことなんてない。そういう人間達の前にしか姿を現さないアパート。消えた受験生もその中のひとり…つまりその建物が「ある」と思い込んでいる人間達のひとりだった。つーか、見てみません?アパート…があるかもしれない場所」
槙は小走りで四つ角まで行き、北を指差し振り返り灰村を誘う。
「俺を連れて行くつもりだったんだろ。最初から」
「あ、バレてた?」
悪びれることなく笑う槙に少し呆れながら、灰村は四つ角を北に向かう。
焼け焦げた井桁屋に着いてからは彼のソレに出てきた通りの道筋だった。二人は強風の中いやに静かな町を歩いていく。小道に入ると少し先がT字になっており、そこを右に曲がると島田製鉄所の裏手に出るので、その裏道を更に進む。細く暗い裏道を、誰もいない裏道を、空き瓶や煙草の吸殻などが散乱しているその裏道を。
そして裏道が終わる。
そこは間違いなく海だった。
「灰村さん。僕、思い出したことあるんです。彼は軍事オタだったようですが、僕は映画オタでして。若い頃はジャンル問わずかなりの本数観てました。アニメ映画では押井守って人の作品が好きなんですけど、この押井守、有名な軍事オタでしてね。ええ、ええ。僕ね、彼のソレを読んだ時からかなりひっかかってたんですけど、ようやく思い出しましたわ。彼のソレ、押井守のとある作品にそっくりですわ」
「どういう意味だ」
「パクリなんです。押井守のとある作品…迷宮物件って作品の」
崖の先端には鴎が一羽、ひっそりと二人を見つめていた。
「何故そんなことを?」
「分かりません。でももしかしたら、わざとなのかも。これは全て僕の想像ですが、彼は実際にここにあった…少なくとも彼にとっては現実に存在していたボロアパートに出前をしていたが、ある時何らかの理由でここの住民の正体を知ってしまった。同時に今年の人身御供が自分であることも知った。彼は誰かにアパートの住民の正体を伝えたかったが、それはとても信じてもらえる内容ではないと思った。だから、押井作品をパクった。何せ友人は軍オタ揃い、中には押井作品に詳しい奴がいてこのパクリ元に気付く人間もいるはずだ。彼の筋書きでは、その気付くだろう友人が興味本位でボロアパートを調査し、住民の正体と彼が消えた理由に気付くはずだった。実際は彼の友人よりも僕が先に気付いてしまったわけですけどね」
灰村は崖先に止まっている鴎を眺めながら腕を組んで首を捻る。
「しかし彼の友人があれを読んで元ネタに気付いても、それだけで終わる可能性だってあったわけだし、その可能性の方が大きいだろう」
「いや、気付いた友人がいたら調べたと思いますよ。彼はアレを残して実際に消えてしまった。パクリ元のオチを知っている人間なら、興味持つと思うし」
「その押田か押井か知らんが、その作品のオチとは?」
槙は言葉を発したが、風が強くその声は灰村の耳まで届かなかった。波が高く、時折飛沫が空に舞うのが見える。海の彼方は灰色に染まり、水平線はよく見えない。向こうは雨なのかもしれない。
「何だって?」
灰村は声を大きくして聞き返す。
槙は大声を出そうと大きく息を吸い込んだが、また風が強くなった。目を開けてはいられないほどの強風で、槙はまたよろめく。
しょうがないな、という顔をし、槙は何かを諦めたように肩の力を抜いて力なく崖先を見た。鴎はまだそこにいる。
槙はじっと鴎を見ていた。
「灰村さん」
ふと風が弱まる。
「灰村さん。それがずっとそこにあったのだという偽の記憶を人々に植え込み、海の上にあるのかないのか分からないどこか不安定なボロアパートを出現させ、自らはそ知らぬ顔をして出前を取り生活し続ける。そんなことができる存在って、何だと思います?」
灰村は踵を返し歩きだす。コートのポケットから煙草を取り出し火を点けようとしたが、風に消されなかなか上手くいかない。後から来た槙が自分のターボライターを差し出し、ようやく灰村の煙草に火が点った。
「とりあえず物証がひとつもない。全ては槙…お前の想像だ」
「ええ。全て僕の想像ですわ。確かなのは、消えた人間がいることと、存在しない建物を存在すると思い込んでいた人間がいることだけ」
槙は寒そうに手をハーフコートの中に突っ込み、小さく身震いをする。
日が傾き、随分と影が濃くなっていた。
「で?」
灰村と槙の前でその青年は項垂れ、青白い顔を小さく震わせながら話を始める。
「受験勉強なんて全くしてなかったから急に怖くなって。それまでは何とかなるって思ってたんだけどあの日は学校で大きなテストがあって、それはもう散々なデキで。合格なんて無理かもしれないって思ったけど、親は一浪してでも大学くらい入らなきゃって思ってるし、僕はもう勉強なんて嫌で。とにかくもう発作的に何もかも嫌になってしまって、怖くなってしまって」
「それで家出を?」
「はい」
青年は目に涙をため、それを隠そうと一層項垂れる。
パイプの椅子に座っている灰村の隣に、槙はティッシュの箱を片手に持って立ち、頻繁に鼻を啜っていた。彼は花粉症なのだ。
「どうしてこんなものを?」
灰村は青年が書いた小説を机の上に乗せる。
青年は目だけでそれを確認するとビクリと身体を硬直させ、オロオロと目を泳がせた。まるで重罪を犯した犯人がその証拠を突きつけられたような狼狽ぶりであるが、彼の場合はただ単に気が小さいだけなのであろう。
「あの……友達を驚かせてやろうと思って」
「それだけかい」
「それだけなんです……」
青年は両手をモジモジさせながら呟いた。
「これ、押井の迷宮物件のパクリだろ」
槙がティッシュを取り出し、鼻をかんでからそう問うと、青年は顔を上げて目を輝かせた。
「そうです! 貴方押井ファンですか?!」
「いや別に。ところでなんであれパクって書いたの?」
折角見つけた押井オタと思ったのに、そうではないことがショックだったのか、青年はまたションボリと項垂れる。
「僕文才なくて。色々考えたんですけど、アレが一番ネタに良くて。僕の友達は押井オタが多いし、アレを残して僕が消えたら、彼等の中で僕は伝説になれるんじゃないかなって思ったんです。アニメの話が実際にあった! みたいな。カッコイイんじゃないかなと思って。だから迷宮物件と、もうひとつ…阿刀田高って作家のホームタウンって小説を参考にしてアレを書いたんです」
ハァ、と大きな溜息を漏らしたのは灰村だ。
あれから一ヵ月後、消えた受験生はヒョッコリ帰って来た。
家出をしてみたは良いがすぐに手持ちの金は尽き、放浪するにも軟弱過ぎてそれが出来ない。働く意思も弱く、第一星の数ほどあるはずの家出少年でも雇う如何わしい店を彼は見つけることすら出来なかった。
そして、こうしてのこのこと帰って来たところを駅で補導されたわけだ。
「現実ってのはこんなもんだ」
灰村は隣でポリポリと頭をかいている槙を見上げる。
「ねぇ、君はあのアパートに行ったことがあるのか? 君が書いた小説に出てくるあのアパートだ」
槙はそう訊ねる。
青年は怯えながらも首を振った。
「あれ、嘘なんです。あそこは何もないんです」
「僕は君が何らかの事件に巻き込まれたのかと思って、少し調べてみたんだ。するとあそこにアパートがあるって思ってる人が何人かいた。何故か知ってる?」
「ちょっと前まで、掘っ立て小屋があったらしいんです。多分それのことかと」
灰村が噴出し、槙は黙り込む。
「掘っ立て小屋は、地図には記載されんわな」
灰村はそう笑い、パイプの椅子から立ち上がった。
「もう家出なんてするなよ。親御さんが下にいる。ごめんなさいってちゃんと言え」
青年はハイと小さく返事をし、部屋から出て行った。
灰村は黙り込んでいる槙の肩をポンと叩く。
「ま、こんなもんだ。お前の話もちょっと面白かった」
槙はティッシュの箱を持ったままそこに佇んでいたが、目の輝きに力があることに灰村は気付いていた。槙は何かを考えている。
しかし灰村は槙をそこに残し、煙草を吸いに出て行った。
灰村は灰皿の置いてある喫煙スペースに出て煙草を取り出す。火を点けながら槙は刑事に向いていないのかもしれないと思っていた。何せやる気がない。すぐサボる。同僚の言うことは聞かず、度胸があるのか常識がないのか上司に叱責を受けている最中でも平気で欠伸をする始末だ。唯一灰村にだけ懐いているのだが、その灰村も槙をどう扱えば良いのかまだ分からない。この件だって。
灰村は煙を肺に吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。
この件だって、槙は途方もないことを考えていた。まるで子供じみた想像で。あれはあれで面白かったんだが。
「如何せん現実的ではない」
煙草の灰を落としながらそう一人呟く。しかし灰村自身もあの時はアパートの存在を自ら非現実的なものだと想像し、槙の仮説を信じそうになっていたことも忘れていない。
「灰村さん」
槙がティッシュの箱を片手に持ったまま廊下を歩き、灰村の前に立つ。
「灰村さん。僕、もう一度彼に会って来ます。気になることあるんで」
「もう良いだろ。ただの家出少年だったじゃねーか」
「ええ、そうですね」
そう適当に答えつつ、槙は歩き出す。灰村は煙草を灰皿の中に入れると、槙の後を追いその腕を掴む。
「お前、やるべきことをやれ。ちゃんとした事件を、ちゃんとやれ」
槙は振り向き、自分より少し背の高い灰村を見上げる。
「どれだけ考えても納得できない。掘っ立て小屋をアパートって言う人なんていない」
槙の言葉に言葉が詰まる。
確かに。
「だがそれは」
「僕はあの時かなり歩き回って調べたんですわ。でも誰一人として掘っ立て小屋なんて言わなかった。あそこにアパートがあると思い込んでいる人たちは全員、あのアパートは、って言ってたんです」
槙は灰村を見上げたままそう言う。
灰村は槙の目から意思を読み取った。そして、槙と一緒に歩き出した。
「行ったことありますけど、もう掘っ立て小屋はありませんでした。ただ崖があって」
玄関先で青年は怯えながらそう答えた。
廊下の影から青年の父親と母親が心配そうにコチラを伺っているのが分かる。家出先で何か事件でも起こしたのだろうかと不安がっているに違いない。
「何故小説にあそこを選んだ?」
ティッシュの箱を片手に持ったまま槙が訊ねる。
灰村はその後ろで腕を組んで見守っていた。
「ひとけのない場所ですし」
青年が青白い顔を更に青くしながらオロオロと落ち着きをなくす。
「大丈夫、ちょっと訊きたいだけなんだ。事件でも何でもないから、君を疑ってるわけでもないし」
槙が笑顔を見せると、青年が一瞬槙に見とれた。
この青年はホモなのか、と、思わず灰村はそう思った。それから、槙の笑顔はこうして利用できるようなので、今度聞き込みがあったら一緒に連れて行こう。連れて行く時はまず槙を風呂に入れよう、とか、そんなことまで考えた。
「ん? 言ってみ? 何でも良いよ」
槙が首を傾げながらそう促すと、青年はようやく口を開く。
「実は、井桁屋のオジサンがざるそば大盛りととろろうどんを持ってあそこへ行くんです」
「……え?」
「最初はどこに行ってるのか分からなくて。その注文だけは井桁屋のオジサンが配達してたんで、何がどうなのかよく分からなくて。ただ、僕はその注文先にオジサンの好きな人がいるのかもしれないなと思ったんです。でも店番してたからどこに行ってるのか分からなかった。でもすっごく暇な日、出前から帰って来たオジサンが今日は暇だからもう帰っても良いぞって言ってくれて。僕は帰ろうとしたんですけど、その日は雪が降ってて、オジサンの足跡がはっきり残っていたんです。これを辿ればオジサンの好きな人が分かるぞって思って、足跡を追ってみたら」
「あの場所へ行き着いた?」
槙の言葉に青年は頷く。
今までじっと二人を見守っていた灰村が青年の家の前に停めていた車に戻り、携帯を取り出してどこかに電話をする。
それを見た青年が不安げに槙を見つめたが、槙は気にしなくて良いというように首を振って話の続きを促した。青年は灰村を気にしつつ話を続ける。
「えっと、とにかく。とにかくあそこには何もないのにオジサンはあそこへ岡持ちを持っていく。これはミステリーだって思ってた矢先に、僕の家出衝動が来て」
「君自身で確かめようとは思わなかったのかい?」
「そりゃちょっとは思ったけど。でも僕の家出衝動の方が強かったんです。大体、オジサンの大事な人があそこで死んで、オジサンはお供えをしているのかもしれないとか、色々考えて」
「話してくれて有難う。ところであそこに掘っ立て小屋があるって誰から聞いた?」
槙の問いに青年は首を傾げる。上を向き、腕を組み、何度か首を傾げる方向を変えつつ考えてはいたものの、彼は結局それが誰だか分からなかった。
「オジサン、悪いことしてたんですか? 捕まっちゃうんですか?」
最後に青年はそう訊いてきた。
「違うよ」
槙が答えると、青年は初めて笑顔を見せた。
「オジサン、良い人です。店長って呼んでもマスターって呼んでも凄く照れて、オジサンで良いって言ってくれて、プロレス大好きな良いオジサンなんですよ」
槙は頷き、青年とその両親に挨拶をするとその場を去る。
灰村が待っていた車に乗り込むと、車はすぐに動き出した。
「悪い勘が当たったようだな」
病院の駐車場で待っていた灰村が、戻ってきた槙の顔を見てそう言う。
あれから二人で何度も聞き込みを行ったが、入ってくる情報はどれも大差ないものだった。
あの場所にアパートがあったと思い込んでいた人間は計43人。彼等に共通するのは唯一、全員年配者ということだけ。掘っ立て小屋があると思い込んでいた人間は計2人、2人とも幼稚園児。掘っ立て小屋があるという話を聞いたことがある人間は計5人、全員高校生。しかしそれらの人間はそれだけだった。何か知っているわけでもなく、何か見ているわけでもなく。
彼等がグルになって槙と灰村を騙しているとは思えなかった。彼等は確かにこの町の住人だが、共通点はそれだけだ。第一、「アパートがあった」派に半分呆けている老人までいるので、そんな嘘をつき通せるはずはない。
過去に行方不明になった人々にも共通点はない。過去に井桁屋でバイトをしていたわけでもなく、飲食店を経営していたわけでもない。
「井桁屋の主人の件は?」
灰村に問われ、槙は鼻の頭を擦るのを止めた。槙の鼻の頭は可哀想なほど赤くなり、ところどころ皮が捲れてしまっている。
「借金を苦にして自殺しようとし失敗、後に夜逃げ。ってことになってるらしいですわ」
槙は垂れてくる鼻水を気にし、スンスンと鼻を啜りながら答える。
あの日。
槙と灰村が青年に会って話を聞いたあの日あの時、灰村は即座に携帯で井桁屋主人が入院していた病院を調べ、槙と共に病院に向かった。
が、井桁屋主人はほんの数日前に病院から抜け出し行方不明になっていた。
「借金っていっても、夜逃げするような金額じゃないんですわ。気の良いオッチャンがパチスロで負けてちょっと生活費借りたくらい」
槙は拗ねたような言い方でそう告げる。
灰村は立ち上がり、近くの自動販売機で熱い珈琲をふたつ買ってベンチに戻るとひとつを槙に手渡す。そして自分も先ほどと同じように槙の隣に座った。
今日も何も新しい情報は得られなかったし、得られる予感すらない。
「今年の人身御供が井桁屋の主人だったとはね」
槙は悔しそうに言う。
「人身御供になった人間はどうなるんだろうな」
灰村の声も沈んでいる。
「それは誰にも分からんと思いますよ。ただ、僕は結構良い暮らしをしてると思うんです。井桁屋の主人、誰に訊いても良い奴だったって言うし、過去の人身御供も良い奴揃いなんですわ。案外あのアパートの中はウヒョウヒョパラダイスなんかもしれません」
槙の言葉に灰村は頷く。
それはそうだ。消えた人間達が辛い思いをしているか良い思いをしているかは誰にも分からない。
「そうだな。そうかもしれないし、本当に借金を苦に飛んだのかもしれん」
「そうですね」
灰村は慰めようとしたのだが、槙はそっけなく適当に返す。
「不思議な事件だった。俺達以外誰も気付いてないけどな」
灰村は槙の態度を気にせずそう続けた。
槙は鼻をスンスンしたまま何も言わない。
「お前、あの時……。覚えてるか、あの時お前自分が何言ったか。あの通りだ。この事件はお前の言った通り」
槙は頷き、灰村に貰った缶珈琲を頬に当てながら口を尖らす。
「もう歩かないぞ! もう知らねー!! もう疲れたーーーーーぁああああ!!」
叫んでから槙は立ち上がる。
そして灰村を見下ろし、あの時の言葉を繰り返す。
「全て僕の想像ですわ。確かなのは、消えた人間がいることと、存在しない建物を存在すると思い込んでいた人間がいることだけ」
■参考■
迷宮物件FILE538 押井守
ホームタウン 阿刀田高