円柱の空間


 1年10組の担任が教室に入って来た時、森憲次は「はらたま」で買って来た朝飯の親子丼を食べていた。「はらたま」は駅の隣にある立ち喰い蕎麦屋で、メインである蕎麦はイマイチなのだがお持ち帰り可能なカツ丼・親子丼・牛丼は非常に美味であり、その美味な親子丼を食している森は、ざわめいている教室内の雰囲気を気にも止めずひたすらに箸を動かしていた。
「転校生の阪神拓実君です。阪神君はご両親が……」
 担任教師の声はそこで更に大きくなった教室内のざわめきに掻き消されてしまったが、森は現在、高校1年夏休み直前に転入して来た生徒よりも親子丼の鶏肉についている鳥皮の部分を箸で器用に取り除くのに夢中だ。
 半熟の卵と出汁の染みた飯を味わいながら、時折ペットボトルの茶を飲んで口をクリアにし、また親子丼を味わう。まだざわめいている教室内で森はマイペースを保ち自分の朝食を済ませると、プラスチックの丼と箸を袋に入れてそれを自分の右後方にあるゴミ箱に投げ入れた。
「おい森。阪神君はお前の隣だから宜しく頼むぞ」
 ゴミがゴミ箱に入ったのを確認すると担任の声にようやく顔を上げ、口元を手の甲で拭いながらようやくその男を見る。そして森は、先ほどから続いている教室内のざわめきが単なる転入生が来た興奮からではないことを知った。
 身長は165あるかないか。身体は多少細過ぎるが、その年頃相応の擦れた目と端麗な顔はそれによく合う。そして、その顔と身体に全く似合わないのか完全に調和しているのか一般人には判断出来ない、耳、唇、眉、鼻に散乱しているピアス。見事なスキンヘッド。そういう性格なのかそれとも悪い癖なのか――僅かに口元から垣間見える人の良さそうな雰囲気からすると後者であろうと憶測される、顎を上げ他人を見下すような態度。
「またお前かよ」
 目が合った瞬間僅かに表情を変えたがすぐさま元の横柄な態度に戻った阪神は、心底うんざりしたような声でそう吐き捨て、朝食の親子丼を食べている間も転入生を視界に入れた瞬間も今も表情ひとつ変えない森は冷然とこう呟いた。
「そろそろだと思った」


 グランドの隅のバックネット裏にある焼却場は、放課後になると人気がなくなる。
 開襟シャツのボタンを一番上まできっちりはめている森は、学校のフェンスの外を、たらふく溜め込んだ昼間の熱からようやく解放されようとしてるアスファルトを、長め前髪の奥から少し冷ややかに眺めていた。太陽が名残惜しそうにまだダラダラとその熱を放出している今も、表情ひとつ変えずにそこに佇んでいる。
 普段から身だしなみには人一倍気を使っている森は女子生徒からは注目を集めていたが、入学してからまだ2ヶ月少々だと言うのに既に男子生徒からの人気は今ひとつであった。その理由は多々あれど最大の欠点は協調性のなさ、いや協調性のなさとその無愛想さか。長身な身体と冷たい表情の森は絵になる男ではあるのだが、同性からすると如何せん癪に触る表情を持つ男であった。森は昔から一人でいる事を望んでいただけなのだし誰かに対して辛辣な皮肉を言うわけでもなかったのだが、実際にこの男の表情はどこか自分という存在を自分で特別視している風に見えた。
 そんな森の後方からグランドの乾いた土をやけにジャリジャリといわせて近付く男がいる。
 森は振り返って男を見た。
「今回はぜってぇにヤらねーから」
 靴の踵を踏み開襟シャツのボタンをだらしなく外している阪神は、学校の購買で買った紙パックのオレンジジュースを片手に森を見据え、そう言った。
 森は腕時計を見遣り時間を確かめると視線を落としたまま少し思案し、その後何か決意したかのように顔を上げる。
「塾行く時間だから手短にいく。俺も今回はお前とヤるつもりないし、間違ってもそういう関係になるつもりはない。出会っちまったがお前も俺も意見は一致しているし、目障りなのはお互い様だが大学に行くまでの辛抱だ、我慢しよう。以上。何か意見があれば今言え」
 多少口早にそう告げる森を見つめながら、阪神は咥えていた紙パックのオレンジジュースを飲んでいた。不満があるのかないのか、咥えた白いストローを子供のように噛みつつ一気にオレンジジュースを飲み干し、紙パックを力一杯焼却炉に投げ入れる。
「ねぇよ。ばーか」
 森の言い方が気に食わなかったのか地面からじわじわとやってくる熱にうんざりしたのか、阪神は踵を踏んだ靴で足元にある歪んだ形のバケツを蹴り飛ばしてから踵を返した。
「おい、キンケード」
 森の呼びかけに、阪神は振り向かずに顔を顰める。
「俺は阪神だ」
「親には大事にされてるか?」
 その言葉に一瞬視線を地面に落とした阪神は、足を止めて振り向き、風もなく茹だるような熱さの中でさえどこか涼しげな森を見た。
 黒くてクセのない前髪の隙間から細くて愛想のない目、腕を通したばかりのような皺のない白いシャツに黒く細めの学生ズボン、脇に挟んだ薄い鞄。嫌味のないデザインのシューズからグランドに向かって伸びた夕日が作る長い影。フェンスの向こうには、同じ学校の3人の女子生徒が見慣れぬ阪神の姿を確認するように何度か振り向きながら去って行く。
「親は先月死んだ。両方。良い人達だったよ」
 鷹揚のない声を出そうと努力している阪神に分からぬように、森はひとつだけ、ほとんど自分の頭の中で溜息を吐いて阪神に向かって歩き出す。頭ひとつ分低い阪神と並ぶと、促すように駐輪場の方に向けて顎をしゃくった。
「お前、相変わらず恵まれてないな」
「でも腕が折れるまで虐待されたり捨てられたり売られたりしてないし。ほんと、良い人達だったんだ」
「そうか。ところでお前、なんでスキンヘッドなんだ」
「カッケーだろ」
「……」
 ポツポツと言葉を交わしながら2人は並んで歩き、駐輪場へ着くと鍵を外して互いの自転車に乗る。ペダルを漕ぎ、幾人かの生徒達とすれ違いながら校門へ行き、そして同じ交差点を同じ方向に曲がった。
 二つ目の交差点で信号につかまる。
「おい、矢野」
 隣で同じように信号待ちをしているバスの中に、先程自分の顔、もしくは頭部をジロジロと不躾に眺めていた3人の女生徒の姿を確認した阪神でも、それが自分への呼びかけだと気付いた。
「俺は矢野じゃなくて阪神だ」
 バスの中の女生徒を見据えたまま返事をした時、女生徒達の一人が阪神の姿に気付き、少し興奮気味に残り2名の肩を叩いてそれを告げている。そしてまた3人揃って阪神を珍獣を見るような目で眺め始めた。
「お前、少しは人を見る目を養えよ。もう弁当喰って動かねぇ奴の下についたりするな」
「あれはしょうがなかったんだよ、バーカ」
 信号が変わり動き出したバスに向かって顔を顰め中指を立て適当にそう返事をする阪神を横目で見ながら、森は学校のグランドでした時と同じように本人にしか分からない程小さな溜息を吐いて自転車のペダルを漕ぎ始めた。
 そして、次の三叉路で阪神と森の自転車は別方向へ向かった。


 森は毎朝通学途中に「はらまた」で朝食を調達し、朝のホームルーム時に一人黙々とそれを食する。鼻先までかかる少し長めの髪は男にしては少し柔らかいように見えるが、森はその黒くて柔らかそうな髪をワックスで整え、天気の良い日などはサイドを跳ねさせて変化を見せている。しかし見てくれは良いのだがいつまで経っても協調性はなく、誰に対しても表情ひとつ変えず会話をするので他人からは気取っているようにも見え、かと思えば同年代の生徒達からすると森はあまりにも悟りすぎているようでもあった。「それくらい自分でやれよ」「それくらい一人で出来るだろ」「それくらい自分で考えろよ」森と話していると、そう言われているような気分になるのが常なのだ。そして負け惜しみでも何でもなく、森はひとりでいる事が苦にならない性質なのだと見て取れた。
 だからいつまで経っても森に友人と呼べる友人は出来なかったが、一人でいる事を望む森はそれを気にしなかった。
 阪神はと言うと、転校当初生徒内で予想された人物像と当人のキャラが随分かけ離れていたためか、夏休みが明けると学年の半数の生徒とは2ヶ月で友人となり、半年もすると阪神はこの高校の顔となった。
 今度は身体のどこにピアッシングするのかという話題、スキンヘッドの頭部にウィッグを付けてみようという他愛も無い試み、腰の部分に刺青を入れるという噂、生徒指導部謎の覆面男襲撃事件の犯人説。阪神はどこにいても注目される人間だった。
 顎を上げ他人を見下ろしながら小生意気な口を叩くのも、阪神のキャラに合っていたのかその愛嬌からか全く憎めないものだったし、何しろ阪神は外見に反し人懐っこい性格でもあったのだ。
 2人はあの夏の日以来クラス内でも必要以上は言葉を交わす事はなかったし、2年になるとクラスも変わったので接点はもうほとんどなかった。


 ほとんど何もなかった。
 たまに阪神が教室内からグランドで体育の授業を受けている森を眺めたり、逆に森が校内を我が物顔で徘徊している阪神を眺めたりするだけだった。
 帰る方向が途中まで一緒なので信号待ちで何度か鉢合わせた事もあるが、1年の夏の日から3年の春まで、そこで言葉を交わしたのは

「お前の髪寝癖ついてるぞ?」
「ついてねーよ」

「お前今日も寝癖ついてるぞ?」
「お前今日もハゲだな」

「おい、金本」
「俺の名前は阪神だ」

 この3回くらいなものだ。
 学校中の誰もが、いや世界中の誰もが、森と阪神があまりにも重大な秘密を保持している事を知らないままなのだ。


 【今回】は、本当にこのまま終わって行くのかもしれないと2人もそう思っていた。もし互いがそこに何かの感情を抱いていたとしてもこのまま高校を卒業し、森は進学をして阪神は幼い頃からの夢だったギターリストになるために突っ走って、そうして終わって行くのかと。
 しかし、ようやく梅雨が終わり太陽が本格的にやる気を出し始めた頃、駅前の予備校に行った帰りに本屋へ行こうとしていた森と、これから友人達が溜まっている居酒屋へ行こうとしていた阪神は、偶然夜の繁華街のスクランブル交差点で、まさに宿命的に出会う。真新しい白のTシャツにほど良く色の抜けた細めのストレートジーンズ、アクセサリー類は一切ないが、黒く品の良いどこかのブランドのサンダルを履いて綺麗に纏まっている森と、ヨレたTシャツに小汚いカーゴパンツと踵を潰して履いているスニーカー、あいも変わらず見事なスキンヘッドの阪神は、いつものように互いの存在に気付かぬ振りをするのではなく、そのスクランブル交差点のド真中で互いに足を止めたのである。
 相手を見て足を止めた以上何か言葉を発せねばならぬと思ったのか、切っ掛けを作ったのは阪神だった。
「よぉ」
 無愛想に言うか愛想良く言うかまだ悩んでいる最中に発してしまった、といった感じで阪神は片手を上げそう声を掛けた。
「おう」
 森は表情を変えないまま信号がまだ点滅を始めていない事を確かめ、そう返事をして久し振りに間近に見る阪神を改めて見下ろした。2年前はまだあどけなさが残っていたためか完全に浮きまくっていたスキンヘッドだが、見慣れたせいか子供っぽさが顔から消えたせいか、今はそれほど浮いてはいない。一般人から見ると「少し怖そうなお兄さん」か「少し頭の悪そうなお兄さん」か。まあ中には「自分らしさを大切にしている若者」と思う人間もいるかもしれない。
「どこ行くんだよ」
 僅かな沈黙も気になる。そんな阪神の口調だ。
 言った後で阪神自身がそれに気付いたようで、それに相手が気付いてない事を祈るように一瞬森の目を伺うように見、それからすぐ開き直ったように森を凝視した。
 森はそんな阪神を見下ろしたままわざとらしく一息間を置き、何か言おうと口を開けた所で再度口を閉じた。
 阪神に苛立ちの表情が浮かぶ。
 忙しくすれ違って行く通行人は2人を避けるように横断歩道を渡って行くのだが、当人達はその場で立ち止まったままピクリとも動かず、森は目元に余裕を浮かばせたまま相手を見下ろし、阪神は一見血気盛んな若者そのものといった感じで眉間に皺を寄せ相手を見据えているように見えるが実は少し拗ねているようにも見えた。
 信号が点滅を始める。
 森はゆっくりと阪神が向かっていた方向に歩き出し、すぐに振り返ってまだ自分を見たまままだ動こうとしない阪神を顎でしゃくって促した。
 横断歩道を渡りきると先に歩いていた森はもう一度振り返り、少し後方から付いて来る阪神を待って隣に並んだ彼の腕を掴む。それから少しだけ身体を屈め、ピアスやイヤーカフでゴチャゴチャしている阪神の耳元に口を寄せて囁いた。
「近くに良いホテルねぇ?」
 内心何を言われるのか分かっていた、その予想通りだった。阪神はそんな呆れ顔を隠しもせず、それと同時に「相手が先に誘ってきた」事実に嬉しそうな表情を一瞬だけ見せ、掴まれていた腕を面倒臭そうに振る。
「お前とはヤんねぇよバーカ」
「やっぱ一回くらいヤっとこうぜ?」
「テメーも今回はヤらねぇって言ったじゃん」
「気が変わった」
「俺はヤる気ねぇよ」
 放せと意思表示をしているにも関わらずまだ腕を離さない森に、阪神は一度だけ相手の脛に軽く蹴りを入れたが、それと同時に何かが激しく衝突する音がした。
「あ?」
 足を蹴っただけのはずなのに…と言いたげに恐る恐る森の足元を見ると、何かに躓いて転んだのか余程慌てていたのか、2人の足元には顔を覆うようにして丸まっている痩せこけた男と歩道側に倒れた飲食店の看板があった。
 森の足が壮大な物音をたてたわけではないと分かった阪神がすぐさま気を取り直して口を開こうとした瞬間、またもや壮大な物音が、2人のいる目の前のビルの一階のテナントのドアを蹴り開けるような物音が聞こえる。
「ぶっ殺してやるッ!」
 そこから出てきた男は森の足元に転がっている男に向かって物騒な言葉を吐きながら走り寄ってくる。男の手にはサバイバルナイフのような物が握られており、人通りの激しいこの通りの人々がほとんど全て凍りついたように足を止めた。
「殺してやる!」
 物騒な男がもう一度喚くと、森の足元に転がっていた男が短く悲鳴を上げながら這うように群衆に向かって逃げようとする。助けを求めたいのだろうが舌が縺れて上手く声を出せないようだった。
「……」
 少々唖然としながら目の前で起こっているそれらを眺めていた阪神には、森が何を言ったのか分からなかった。
「あ?」
「早くヤろうぜ」
 ナイフを持った男が喚きながら目の前で暴れている。が、森には関係ないらしい。
「あのなー」
「もうすぐ進学だし、これを逃すともう出来ねぇ。さっさとヤろうぜ」
「あのなぁ…」
 ほんの2、3メートル離れた場所では、警察を呼べと叫んでいる男達の声や女達の悲鳴が聞こえ、ナイフ男はまだ一人で頑張っている。阪神はチラチラとそちらを気にし、面倒ごとはごめんだと言わんばかりに森を連れてなるべくこの場を離れようとしていたのだが、未だに阪神の腕を掴んでいる森は人を斬りつける度胸もなく遠慮がちにへっぴり腰でナイフを振りまわしている男には完全に興味がないようで、全くその場を動かない。
「実は桧山もヤりたいだろ?」
「俺は阪神だ。そして俺は別にお前とは――
「チンコで感じてみろ。ヤりたいはずだ」
「その顔でチンコ言うな。分かったからとにかく移動するぞ」
「ヤる?」
「ヤるヤる」
 森のペースに嵌った阪神と珍しく表情を崩し満足気の森がその場を去ろうとした瞬間だった。
 誰が何を言ったのか、どんな状況だったのかは2人とも分からない。
 ただならぬ気配に2人が同時に振り向くと、先程までへっぴり腰で遠慮がちにナイフを振り回していた男が何かにとり憑かれたように血走った目で走り寄ってくるのが見えた。
 咄嗟に、阪神は森を、森は阪神を庇った。


 【それ】は今までにない展開であり【そこ】は2人とも知らない場所だった。

 柔らかい光を取り入れている高い天窓からは今までに聴いたことのない音楽が小さく降って来て、動く気配のないわりには冷たく澄んだ空気が辺りを覆っているただっ広い円柱の部屋。部屋の中心に大きめのテーブルと椅子、ランプが置いてあり、それを取り囲むように緩やかな曲線を持つ書架が幾十にも重なっている。部屋の中心に近いほど書架は低く、中心から遠ざかるほど書架は高くなり、壁は天井まで全て書物によって覆われている。いや、この奇妙な円柱の部屋…空間はあまりにも広すぎて、壁側に書物のようなものが並んでいると憶測されるだけであって、本当はそこに何があるのかよく分からないほどだった。ここにある書物を全て読む事は可能なのだろうかと思えるような膨大な書物の量。
 森と阪神は暫くそこで呆然としていたのだが、先に動いたのは森であった。
「なぁ」
 森はとりあえず一番手近にあった書架の中から一冊手に取ってそれをペラペラと捲ってみる。阪神はまだ瞬きも出来ない状態で森の行動をぼんやりと見ていた。
「あのさ、何が起こったのか全然理解できねぇけど」
 森が手にした本は誰かの年譜のようで、何年で何処其処で生まれ、両親は誰某で…等という事がぎっしりと書いてある。森はよく分からないままそれを書架に戻し、円柱の部屋を割るようにある二つの扉を眺めてから阪神に視線を移した。
「誰もいないし、とりあえずヤろうぜ」
 その森の言葉に阪神はようやく我に返り、屈託なく笑った。
「誰も気付いてないけどお前って馬鹿だよな。寝癖ついてるし」
「みんな気付いているけどお前はもっと馬鹿だ。ハゲだし。とにかく服を脱げ」
 ヤる気を全面に出している森は一人でジーンズと下着を脱ぎ、その状態で阪神を捕まえ、その小汚いカーゴパンツに手をかける。だが阪神は笑いながら森の手からすり抜けた。
「キンタマにコンニチハ」
 腰を屈め森の下半身にそう挨拶すると、阪神はそのまま自分の前方にある扉に向かって歩き出す。森は下半身に何も穿いていない状態のままで阪神を追った。
 踵を履き潰している阪神のスニーカーが、綺麗に磨かれた大理石の床をだらしなく引き摺りながら進んでいく。森は自分達を取り囲む見渡す限りの膨大な書物を無感動に眺めながら阪神の後ろを歩く。誰がどのような理由でこれらを集めたのか、いやそもそも自分達は何故ここにいるのか――森はそれらの事柄には僅かな興味もないようだ。
 暫くするとようやく扉に辿り着いた。
 観音開きの扉に鍵は掛かっておらず、引いてみるとそれなりの重みがあり、阪神は少しばかり緊張しながら扉を開けた。
 扉が低い音を吐き出すと共に目の前に現れるものは、今まで自分達が見ていたものと全く同じのもの。円柱状のただっ広い部屋…いや、部屋と呼ぶにはあまりにも大きな空間と、あまりにも大量で少し違和感さえ覚える書物達であった。
「俺さ、思ったんだけど、俺達はあん時にあの馬鹿に刺されて死にそうになったわけ」
 急に後ろから声を掛けられたので阪神は小さく息を飲んだが、それを相手に悟られたくはないかのように意味もなくしかめっ面をして振り向いた。
「はぁ?」
「だから、俺達死にそうになったんだよ、きっと。そんで病院に運ばれたけど一向に意識が回復しなくて、こりゃ一体どうしたんだって所で大金持ちなオッサンが登場してよ。自分ならこの子達を治せるからとかナントカ言って自分の豪邸に連れこんで、そんなこんなで俺達は意識が戻ったんだよ、きっと」
 荒唐無稽な森の言葉に阪神は子供のようにケタケタと笑った。
「んで、その大金持ちのオッサンはどこにいるんだよ。何で俺達を救ってくれたわけ?」
「大金持ちのオッサンはそろそろ登場するさ。俺達を救った理由はやっぱ俺だろ。俺、美形だから。お前はオマケだな。ハゲだし」
「美形は分かったけど、チンコ丸出しで言うとアホに見えるぞ?」
 阪神は笑いながら扉を閉め、今度は反対の扉に向かって歩き出す。が、そちらもまた円柱で溺れる程の書物に囲まれた空間であった。
 一体どれほどの書籍物がここに存在しているのか、誰が、何の為にこれほど集めたのか。阪神は疑問に思いながら少し歩き回ってはみたものの、書架と書架の間は人が一人ようやく歩けるくらいの隙間しかなく、所々で途切れているのでそれは迷路のようであり、更に書架自体がこの円柱の建物に合わせて作られているのか僅かに曲線を描いているので、少しでも森との距離が空くと本当に迷子になったかのような気分になる。
 結局探索をするのを諦めた阪神は、森のジーンズと下着が置いてある中央のテーブルに戻ってその上に腰を掛けた。森はようやくウロチョロするのを止めた阪神を見て待っていたと言わんばかりに阪神のカーゴパンツのボタンに手を掛け、それを外す。阪神も諦めたようでされるがままになり、腰を浮かせてズボンと下着を脱ぐのを手伝った。
 下半身を弄る森を眺めながら阪神は机の上で寝そべり、一度大きく背伸びをし、テーブルランプの横に一冊だけ置いてあった分厚い本を上半身を捻って手にした。茶色の装丁のこの古びた本は幾らか汚れており、パラパラと捲っては見たもののどうやら途中から白紙になっている。一体どうなっているのかと阪神が興味を持ち、文字が印刷されている頁の文字を何となく見てみたその時だ。
「あッ!」
 阪神の鋭い声に彼の片足を持って肩に担ごうとしていた森は動きを止めた。
「なんだ?」
「俺達の名前が載ってる…」
 阪神の言葉に森もようやく興味を示し、その本を取り上げて見てみる。すると実際そこに『阪神拓実』と『森憲次』の名前が記載されていた。森は掴んでいた阪神の足を離し、頁を数回捲ってみる。
「どういう事だ?」
「知らねぇよ」
 足が解放された阪神は身体を起こし、取り上げられた本を逆から覗き込む。
 産まれた年、両親の名前、どこの小学校へ行きどんな出来事があったか…例えば何年何月何日何時何秒に飼い猫が死に、どこに墓を作ったか、初恋はいつか、相手は誰か、阪神の両親が死んだ日、阪神はどこにいたのか、何をしていたのか…そんな事まで詳細に随分と美しい文字で書き綴られている。
 頁を捲ってみる。
 何度も何度も頁を捲る。
 今日の日付。
 
 森憲次
 午前七時に起床。午後十時半零秒、予備校の帰りに神田町三丁目交差点にて阪神拓実と邂逅。午後十時三十三分零秒、神田町三丁目二−八、三館ビル前で近江出身熊谷太郎三一歳にナイフで切りつけられた後、刺される。
 阪神拓実
 午前七時半に起床。午後十時半零秒、神田町三丁目交差点にて森憲次と邂逅。午後十時三十三分零秒、神田町三丁目二−八、三館ビル前で近江出身熊谷太郎三一歳にナイフで切りつけられた後、刺される。

 そこで終わっていた。
 残りは全て白紙。
 森と阪神は暫く息を潜めるようにしてそれをただじっと見つめていた。ここで終わっているし、確かにこの先は書かれていない。そしてこの空白こそが、この巨大な円柱の空間よりも書架に綺麗に並んでいる書物達よりもここにあるテーブルよりもその横のテーブルランプよりも、森が手にしているこの茶色の古びた本よりも、今ここにいる自分達よりも、あまりにもリアルであった。
 不意に森が弾かれたように頁を逆に捲り始める。何かを探し求めるように目を見開き、素早くそこにある文字を追っていく。
「これってもしかして…」
 途中で何かに気付いたのか、同じように逆向きからそれを覗き込んでいた阪神が、どこか恐々と小声で話し掛ける。
「多分な。俺が腹を切った事もちゃんと書いてある」
 森は呟くように小さく返事をしながら、更に頁を捲った。
 森憲次は何事にも動じない男だ。普段ならば、例え自分の目の前で何が起ころうとも泰然自若としている。例え目前で殺人が起きたとしても戦争が勃発しようとも、どれほど予測しいえなかった出来事が展開されようとも、森憲次という男は最後まで冷然としているであろう。それは彼の過去の経験で培われたものであった。一方の阪神拓実は、森と同じく大抵の物事に対して場数を踏んでいるものの、森ほどの境地には至っていない。これは単に性格の違いであろうと思われる。
 そして今現在、容姿に似合わず怯え気味の阪神は勿論、森までもが僅かに緊張した面持ちで手にした本の内容に釘付けになっていた。

「いやはや、遅くなってスマンね」
 どこからともなく突如として降って来たその声に2人が弾かれるように上を向くと、そこには天窓方向からヒラヒラと、まるで紙切れや蝶のように僅かな風で翻ってしまうほどヒラヒラと実に可愛らしく愛らしく舞い降りて来る一人の初老の男がいた。
 50センチほどの大きさしかないその男の背中には、手のひらを一杯に広げた程度の大きさしかない小さな羽があり、全身を包む真っ白なローブは光り輝いて見える。手や足の大きさはこじんまりとしているが腹が出ているようでちょっと小太りに見えるが不健康なそれではない。頭の大きさは身体のバランスから考えて確実に間違っているが、その大きさと比例するようにある子供のように光る青い瞳があまりにも愛らしく可愛らしく、低い鼻や人懐っこい口元、皺はあるものの健康そうな頬や赤ん坊のようなピンク色の肌が愛嬌を感じさせた。愛嬌と言えば彼の髪型にも相当な愛嬌がある。彼はほとんど禿に近い状態だったが、頭上中央にはピコンと尖った白髪があるのだ。目が大きく頭のてっぺんに尖った髪――そう、彼はキューピーちゃんにそっくりだ。
「ここに来た人間は確かに少ないが…パニックを起こしてないどころか下半身丸出しな人間は君達が初めてだよ」
 彼はつい先程まで阪神が寝そべっていた木のテーブルにヒラヒラと舞い降り、森が手にしていた本を指差してかなり甲高い声で続ける。
「今まで気付かなかったのはコチラのミスだった。まさかこんな事があるのかと随分と焦ったよ。全く管理部の連中ときたら勤務中にサイコロ遊びばかりしていてろくに働かないから。さっきだって僕が事務所に顔を出した途端に大慌てでスポーツ新聞を片付ける者、ゲーム画面を切り替えて書類を製作していた振りをする者、お菓子の袋を机の下に隠す者、慌てすぎて紅茶の入ったカップをひっくり返す者でそりゃもうドタバタだったんだ。一度部長とゆっくり話をしなくちゃならないとは思ってるんだけどね」
 彼はやれやれと肩をすくませ、テーブルランプの横に立って手を後ろに組む。
 阪神は口をあんぐりと開けて完全に茫然自失状態だが、森はこの事態にいち早く対応しようと脳をフル回転させている。普段は基本的に何事にも無関心な森だが、手持ちの本に目を通してから酷く今の状態に、全てをひっくるめて、今のこの事態に興味を示しているようだった。
 彼は甲高い声でまだ「管理部」とやらの不平を並べている。余程腹に据えかねていたのか、それとも相手が何であれ一度不満を口にすると止まらないタイプなのか。
 森はそんな彼の声を耳にしながら、頭を整理するかのようにゆっくりとこの円柱の空間を覆う書物達を見渡す。そして視線を彼に戻すと、放っておけばいつまでも「管理部」の不平を口にしていそうな彼の言葉を遮った。
「ここは?」
 簡潔な質問に彼ははたと我に返り、大きな咳払いをひとつすると両手を広げた。
「ここは未来であり現在であり過去であります。全ての出来事だし、全ての運命だし、もしくはあらゆるものの存在を証明する場所、或いは世界の全てなのかもしれません」
「で、結局は?」
「アカシック図書館です」
 身体をぐいと仰け反らせ、彼は小さな身体で精一杯胸を張ってみせた。
「んで、アンタは?」
「わたくしはアカシック図書館の館長、広家でございます」
 青い目をして羽まで生えているわりにはコテコテの日本名である。
「…ろいえ……」
 その名前に反応を示したのは、今まで森の隣でひたすら立ち竦んでいた阪神だった。
「はい、わたくしは広家です」
「……広家」
 徐々に阪神が我に返る。
「はい」
「…広家様」
 我に返ったのかまだ完全には正気に戻っていないのか、阪神は突然目に涙を浮かべて唇を噛み締めた。
「はい……?」
「あれから苦労したもんなぁ…だからこんな姿になっちまったんだな。でも俺はアンタの作戦は間違ってなかったと思うんだ。未だにアンタのせいにする奴もいるけど俺は味方だからさ。でももう弁当は勘弁な、マジで!」
 何の話か見当がつかずキョトンとしている彼の肩を、阪神は涙目でウンウンと頷きながら力強く何度も叩く。
 森はそんな2人の様子を見ながら苦笑し、緩く首を振りながら言った。
「その広家じゃないみたいだぞ。とりあえず落ち着……」
「広家様ーーッ!」
「いやだから違うって。ってゆーか、そろそろチンコしまおうぜ」
 今まで下半身丸出し状態でいた事に気付き、阪神はそこでようやく冷静さを取り戻して森に剥ぎ取られた下着とカーゴパンツを拾い、何故か無言でコソコソとそれを穿く。森もテーブルの上に畳んでおいた下着とジーンズを手にしてそれを身につけた。
「私は誰と勘違いされたのか?」
 阪神が突然何かわけの分からぬ事を言い出した挙句に何故か肩をやたらと叩かれた彼は、まだ幾分かオロオロしている。
「いや、コイツは関ヶ原で…いや何でもない」
 森が畳み皺を気にするように下を見ながらそう答えたら、彼は「関ヶ原…」と呟き、それが何であったかを思い出すかのように小さく小首を傾げた状態で暫く止まった。白い眉はハの字になり、やたらと大きくて愛らしい青い目を上に向け、何かをひとつずつ解すように頷きながら口だけを動かしている。その様子はまるでテスト中に問題を解こうとしている生徒のようだ。
 ぽん。
 小さな手が小さな音を出し、今まで難しく悩んでいた顔がぱっと明るくなる。
「思い出したよ関ヶ原!…いやそうではなく、本題だ。本題を思い出したよ。忘れないうちにいち早く言うよ。私はいつも言わなくてはならないことをすぐ忘れてしまって話が脱線してしまってよく叱られてしまうんでね。最近も上に報告しなきゃならないことがあったんだけど、私はそれを忘れて、いや忘れたわけじゃないんだけどちょっと話す順番が――
 背中に生えた白い羽を興奮気味にパタパタと羽ばたかせながらまた彼の悪い癖が出そうになったので、表情をコロコロ変える彼を腕を組みつつ見守っていた森と阪神は、揃って「本題」と、彼の話の続きを促した。
 そう言われてバツが悪かったのか、コホン、と彼はひとつ咳払いをする。それから人差し指で森と阪神を交互に指しながら、少し早口でその本題とやらに入った。
「いいかね、君達。君達の問題は三つある。三つも、だ。まず最初の問題。いいかね、君達。そもそも前世の記憶を持っていること事体が間違っているんだ。極稀に前世の記憶を持った者はいるが、それはそういう運命の者だっただけであって、それ以外の者が前世の記憶を持っているなんて事は間違っているんだ。そして次の問題。いいかね、君達。君達は前世の記憶を持っているだけではない。何個も前の記憶、前前世、前前前世、四個前とか五個前とかの記憶まで保持しているだろう。こんな事は前代未聞どころの話じゃないんだよ。とんでもない事だ。決してあってはならない事なんだ。そして最後の問題。いいかね、君達。君達はあろうことか、今までの全ての人生で出会ってしまっている。それどころか肉体関係を結び、挙句の果てに大抵は恋人関係にまで発展させているではないか。こんな事は許されないぞ。許されるわけがないのである!」
 身振り手振りが激しくなっている彼は先程よりも更に羽をパタパタとやらかし、顔を紅潮させ、明らかに興奮状態に陥っていた。純白の羽毛がひらひらと机の上に舞い落ちているのが対照的で、少し滑稽でもある。
「あのなオッサン。別に俺達だって『今回も前世の記憶を持ったまま生まれよう!』なんて気合入れて生まれてくるわけじゃないんだぜ?」
 わけの分からぬ因縁を吹っ掛けられたように感じたのか、阪神は膨れっ面をして抗議をする。
「黙らっしゃい! ともかく間違っているんだ。間違っているんだよ!」
「そりゃ俺達が間違ってるわけじゃねぇだろ! 大体どんなに前世の記憶を持ってたってな、信長や幸村が生きてたって言っても坂本と中岡殺した犯人知ってるって言ってもな、誰も信じやしねーから大した問題じゃねーだろが!」
「知ってること事体が駄目なの! 駄目って言ったら駄目なの! 大体ね、人生は一度しかないと思っているからこそ価値があるんだ、君達のように前世をはっきり覚えてたらその有り難味がなくなる。実際君達なんて人生を精一杯生きていこうなんて思ってもいないだろう! 実際死に際に『辞世の句考えるの面倒臭い』とか『あ、徳川埋蔵金の事忘れてたや』とか、そんなこと思ってただろ、君達は! それじゃ駄目なの!」
 極度に興奮している彼の甲高い声は広い円柱の空間に響き渡っていたし、あまりにも羽をパタパタとやらかすので彼の身体は時折ふわりと浮きそうになっていた。阪神は手を腰に当て、不服そうに口を尖らせている。
 そんな中、大体の事情が飲み込めた森が口を開いた。
「んで、俺とコイツが出会っちゃ駄目ってのはなんでさ?」
「そりゃ君、当然だよ。君達の記憶に関しては君達にしか害はないけれど、君達が毎回愛し合う事で回りの人間達の人生にも『ズレ』が生じるんだ。本来ならば君達は全くもってそんな関係にはならず、その時々にお互いにお互いのパートナーを見つけ彼等、もしくは彼女等と添い遂げるはずなのに、君達がその運命を変えるおかげで彼等、彼女等の人生はことごとく狂い始める。そしてその狂った運命のせいで更に多くの人間の人生が狂い始めるんだ。君達ね、あのね。君達のせいで今までどれほど多くの人間が涙を流したと思ってるんだ! 仲睦まじく暮らしていくはずの恋人同士が別れてしまったり、狂った運命に弄ばれてひたすら苦しんだり、中には非業の死を遂げた人間もいるんだぞ! 謝れ! その人間達に謝れコンチキショー!!」
「スマンかった! 知らねーけど悪いね、マジで! いやマジでっ!!」
 売り言葉に買い言葉というか、先程から喧嘩口調の阪神は天井を仰ぎ片手を上げ、彼が唾を飛ばして「謝れ!」と言うその人間達に謝るふりをする。
 彼はそんな阪神の切り返しが余程口惜しかったのか地団太を踏んで何やら阪神に文句を吐けていたが、あまりにもパタパタと羽ばたかせ過ぎていた為に身体が完全に浮き上がり、地団太を踏んでいるようには見えたが実際には足が空で回っているだけであった。

   その後、顔をトマトのように赤くして羽根を何枚もテーブルの上に散らかす彼に対し、阪神はその見えぬ「謝るべき人間」に向かって土下座までして「スマンネ!」を連発し彼に対抗しするなど、随分とすったもんだした挙句にようやく2人の体力が消耗してきた。
 森は依然として腕を組んだままそんな様子を眺めていたが、2人の口数が減ってきたところでそろそろ話を進めようと口を挟んだ。
「で、俺達にどうしろと?」
 彼は真っ赤な顔を森に向け、そうだそうだと呟きながらローブの懐から一枚の小さな紙切れを取り出し、それを森に手渡した。
「運命変動同意書にサインして頂きたい。今日君達を呼んだのはこれにサインして貰いたかったからなのだ」
「…だったらさっさとそれを言えよ」
 阪神の呟きに彼は子供のように舌を出してから、ふんっとそっぽを向く。この男は顔の皺さえなければ本当に子供のようだ。
「この同意書にサインしてくれたら君達の前世の記憶を消すよ。見たところ最近では君達も互いの存在にうんざりしているようだし、前世の記憶なんてなくても平気だろう…というよりもそれが普通なのだし、別にデメリットはないと思うが、どうかね? これにサインしてくれれば君達はお互い他人同士、新たな人生を送れるのだし、君達に振り回されていた他の運命の恋人達もこれからは幸せになれるのだよ?」
「俺達のこれからの運命は? この本はここから白紙になっている」
「そう、白紙だ。それも本当に不可解なんだけど…ともかくサインをしてくれたらこの本は処理して君達は新しい本に書き換えられる」
「誰に書いてもらうのさ」
「そりゃ決まってる。この本を、つまり運命を書ける唯一の存在だ」
「あのさ、そいつが俺達の記憶を、何度も前世の記憶を持ったままにさせて俺達を何度も巡り合わせただけじゃねーの?」
「違う。それは確かめた。それから、そもそもこの本…つまり君達自身の運命が普通の者達と比べて少し変わってるんだ。先が書かれてなかったり勝手に作られていたりと。私はそれを本来の本に直そうといっているんだよ。ともかくサインを」
 阪神を無視したまま、彼は森にそう説明してペンを渡した。森は渡されたペンを握ってチラリと阪神を見る。阪神は阪神で、彼から「問答無用で書け」と言わんばかりの勢いでペンを握らされていた。どうするべきか分からず、同じようにチラリと森を窺うように見る。
 お互いの目が合い、一瞬沈黙があった。
 阪神の目が縋るようなものに変わるが、森は何も言わない。
「俺は確かにコイツにはウンザリしてるよ。もうヤらねーって言ったのに、今日だってコイツが誘ってきたから」
 沈黙に怯えるように阪神がそんなことを口走ると、森は突き放すように目を逸らした。
「では、サインを」
 彼に促されるように、阪神は小さな紙切れを手にしテーブルに置いて体を屈める。しかしなかなかサインをしようとしない。その体勢のままじっと紙切れを眺め、口を尖らせていじけた子供のように口の中で何やらブツブツと文句を言っていた。
「サインしなさい!」
 焦れた彼が甲高い子供のような声でもう一度催促した時、阪神は思い切ったように顔を上げ隣の森を見上げた。
 再度森と視線が合う。
 今度は2人で少し笑った。
「広家様、ごめんな」
 阪神の言葉に彼がキョトンとする暇もなく二つの拳がその両頬にブチ当たり、小さくて可愛らしい身体は瞬く間に高い天窓を破ってお空の星になったのだった。


 円柱の空間には、何かを相談する2人の声。
「その前に、俺の前と前の前の親の記憶を消して」
「消しゴムねーよ」
「消えたって書けば良いんだよ」
「なるほど」
 テーブルの上には一冊の古びた本があり、森が丁寧な字で何かを書き込んでいる。
「書いたぞ。それで?」
「まず競馬で大儲け。それから俺の作ったCDが馬鹿売れする」
「何年後?」
「1年後」
「タイトルは?」
「タイトルは――――……」





 2人の背後では、サバイバルナイフをへっぴり腰で振り回していた男が…確か彼の名は熊谷太郎、近江出身の三一歳…その彼が駆けつけた警官に拿獲されていた。
「おい桧山、行くぞ」
「俺は阪神だ。ちゃんと覚えろよ、今岡でもアリアスでもねーからな」
「名前なんてどうでも良いだろ」
 野次馬達の合間を縫って、2人は歩き出す。
 ネオンが煌く夜の街は、ひとつ角を曲がるといつもと何ら変わりがない。
「お前さ、俺がヤろうぜって言った時嬉しかっただろ」
 阪神の目的地であった居酒屋を通り過ぎた時、森が少し笑いながらそう言った。
「お前だって、俺がマジでサインしたらどうしようってちょっと思ってただろ。大体な、俺はマジでお前とはヤる気なかったし、今も別にヤリたいわけじゃねぇよ?」
「チンコで感じてみろ。ヤリたいはずだ」
「その顔でチンコ言うな」
「顔なんてもうどうでも良いだろ」
「まあな。俺達の付き合いは100年単位どころじゃねーからな」
 どこの国から来たのか分からない女性達が呼び込みをしている通りを過ぎ、更に角を曲がると少し人気が減った。
 狭苦しく立ち並ぶ建物の看板には「宿泊」や「休憩」の値段が書かれている。
「ヤル前に曲作るのちょっと手伝ってくれね? 俺の一年後の超話題作『彼の心は立方体』を作るまで何せ時間がねーんだ。その半年後には『デルタ地帯が愛した人』、その三ヵ月後にも『いつだってリアス式海岸』が馬鹿売れの予定だし」
「……。本当に売れるのかねぇ」
「売れるさ。あの本にそう書いたんだし」
 少し変わった形の割と小奇麗なホテルの前で阪神が立ち止まり、ここで良いかと訊ねるように看板を拳でコツコツと叩くと、森が小さく頷く。
「俺達、いつかまた広家に呼び出されるのかな?」
「アイツ等仕事してなさそうだし、当分…あと百年位は平気じゃね?」
 阪神の疑問にそう答えると、森はホテルの扉を開いて中に入る。
 
 中に入って分かったのだが、ホテルは円柱だった。
 だが膨大な書架が建ち並んでいるわけではなく、広家が待ち構えているわけでもなく、ただ彼等が爆笑しただけであった。






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