最終章 それが例え如何なる状況で出会ったのだとしても


 それから俺は普段の高校生活に戻る。
 くだらない生活をしてつまらない授業を聞いて、時々深海と将棋を指す。シンジと深海はやっぱり全然似ていないと思いながら。俺はあの時なぜあれほどまでに深海に拘っていたのか分からないままだったが、今となってはどうでも良い事だった。
 自分の下で喘ぎ声を上げる女を疎ましく思いながら、それでも手当たり次第に女を抱いた。しかし女を抱けば抱くほどシンジを思い出し、そしてシンジの面影を追っていた。俺はシンジが忘れられなかった。シンジの何もかもが忘れられなかった。
 一度ボーナスが振り込まれ時エイの携帯に連絡を入れてみたが「現在使われておりません」のテープが流れていたし、マンションにも行ったがあの部屋は空室になっていた。ヤギシンジの名を周りの人間に訊いてはみたものの、小中高とずっとこの私立だった元々ツレが少ない俺には何の情報も入って来なかった。最後の手段で興信所に頼もうかとも思ったのだが、自分がストーカーじみている気がしてきて結局諦めた。
 それでも俺はシンジの夢を見た。
 シンジを抱き締める夢を見た。


「秋佐田、もしかして煙草止めたぁ?」
 体育の授業中に深海が訊いてきた。
「なんで?」
「だって匂いしなくなったよ」
 深海が背伸びをして顔を寄せてくる。
「止めたわけじゃねーんだけど、何か吸えなくなってさ」
 俺がそう言うと深海は「良く分かんねー」と言ってクスクス笑っていた。
 本当に俺は煙草を吸えなくなっていた。
 止めようと思ったわけではないのだがアノ日以来1本も吸ってない。新しく買って封を切っても、どうしても火を点ける事ができなかった。





 アノ日から2ヶ月経った。
 俺はシンジを忘れられなかったが、それでも手当たり次第女を抱くような事は少なくなった。
 それでもシンジの夢はまだ見る。
 その日もシンジの事を考えていた。
 もしアノ日の映画が「ジャック・サマースビー」じゃなかったら、もし俺がシンジに「ジャック」と勝手に呼び名を付けなかったら、俺達は今頃どうなっていただろうか……そんな意味のない事を考えていた。
「秋佐田。俺、次の数学当てられそうなのぉ。タスケテね」
 急に声を掛けられ驚いて前を見ると深海が俺を覗き込んでいる。目をキラキラさせて甘えてくる深海は本当に可愛かった。
「あのね、今日数学の教科書持った藤沢に追い掛け回される夢見たの。俺、メッチャ怖くてさ〜。マジで当てられたら助けてね」
「分かったよ」
 返事をすると深海はニカっと笑う。
 深海の悪夢は数学の藤沢かと思うと可愛くてしかたない。
 そしてシンジにも俺の夢を見て欲しいと思った。
 例えそれが悪夢だとしても。
 そう言えばアノ日、シンジは俺と会う夢を見たと言っていた。確か「吊り橋の上」で会う夢だったはずだ。
 シンジは「吊り橋」に拘っていた。最後まで。
 俺は何度もその事を考えたが、いまだに意味が分からない。俺は今まで吊り橋がある場所には行った事がない。念の為両親にも確認を取った。それなのに思い当たる節が無い。
「深海、吊り橋行った事あるか?」
 何となく振り向いて深海に訊いてみた。
「へ?吊り橋?ない…あ、ある」
「どこ?」
「分かんない。俺ん家引越し多くてさ、ちっこい頃の記憶が滅茶苦茶になってるから。 なんで?」
「人に言われたんだ。吊り橋の上で会ったって」
「へぇ…」
 そこで予鈴が鳴った。深海は緊張した面持ちになってソワソワしていたので楽しく観察していると、本鈴1分前になって「やっぱフケる」と青い顔で言い出した。どうやらよっぽど怖い夢を見たらしい。俺もどうせシンジの事を考えるだけだったので、2人で屋上へ上がって将棋を指す事にした。
 深海の板と駒を持って屋上へ上がると一雨来そうな空だった。
「一時間持つかなぁ」
 深海が空を見て、そう呟きながら駒を並べる。俺もそれに続いて駒を並べていると、手と手が触れた。別に少し触れただけだったのだ、がそれでも一瞬その手を握ってしまった。俺が知っている深海の手とは思えない。
「どしたの?」
 驚いた深海が訊いてくる。
「深海のこと可愛い奴だと思うけど…」
「うん。俺カワイ子ちゃんだよ」
 俺は手が放せない。これは深海の手とは思えなかった。
「…オマエ、苅田に何かされたか?」
「へ?されてないよ」
「ホントか?」
 深海はちょっと真面目な顔をして俺を見た。
「秋佐田、苅田は俺を汚そうとはしてないよ。もし俺の手に違和感があるのなら、それは苅田の所為じゃない」
 俺は手を放した。深海の手が汚れたとは思わない。むしろ力強くなった感があった。だから余計苅田の影響かと思ったのだ。

 そして俺達は将棋を始めた。
 俺は深海を見て思う。
 なぜあの時アレ程深海に固執したかを。
 俺はきっとこの余りにも可愛い男を独占したかったんだ。恋ではなく、独占欲。それは俺の大嫌いな苅田に煽られた独占欲。
「……実はさ、俺が深海を汚しそうになったんだ」
「なに?俺をオカズにしたとか?」
「そんな感じ」
「えへへ、俺ってば罪作りな男だな〜」
「悪かった」
「んー」
 俺の突然の告白を深海は軽く流した。
 暫く互いに無言で指していると屋上のドアが開く。見れば同じクラスの岬杜だった。俺はこの男と話した事がないし、この男は誰とも会話をしないと聞いた事があったので無視していると、岬杜が近付いて来て深海の横に座る。そして座ると同時に深海の腰に手を回す。
 俺の目が釘付けになった。
 それは明らかに意思のある動きに見えた。
『深海春樹は俺のモノ』
 岬杜と目が合うと、一方的にそう言われた気になった。それは決して嫌な感じではなかったが、有無を言わさぬ雰囲気があった。
「…永司」
 深海が苦笑しながら小声で岬杜を咎める。岬杜が俺から視線を外す。そして俺は深海が岬杜によって変えられた事を理解する。
 そこに俺の可愛い深海を取られたような疎外感や嫉妬はなかったが、この深海春樹を手に入れた岬杜に対する羨望みたいなモノはあった。

「そう言えばさぁ」
 深海が銀駒を動かしながら言う。
「なんだ?」
「吊り橋の話で思い出したんだけどね」
「ああ」
「吊り橋の上で人に会うと恋をする話知ってる?」
――なにそれ」
 俺の手が止まる。
「何かの本で読んだんだけどさ、高い吊り橋の上にいるとドキドキするじゃん?そこで人に会うとね、その人に恋をするんだって。それはね、恐怖のドキドキと恋のドキドキを脳が区別できないからなんだって。だから勘違いしちゃうんだって。情動二要因理論、だったっけかなぁ。『人というのは自分の心臓の鼓動の高鳴りの原因を、その場の状況から自分で一方的に判断するだけ』とか何とか書いてあった」

 心臓が、俺の心臓が―― シンジの心臓が――


 ……吊り橋でさ
 会ったんだよな
 オマエと。だから……

 オマエはアキ?
 ……じゃあ俺はジャックだ

 ヤろうぜ
 違う。何度でもヤル。何度でもヤろうぜ

 俺は起きている間はずっとアキとセックスしたいんだ

 夢を見たんだ
 アキと会った夢
 吊り橋の上で会った

 ――アキ…アキ、アキ、アキッ!!

 ……俺は
 …俺は
 ヤギ
 …シンジ

 だから俺はシンジじゃねーってば。俺はジャック・サマースビーなの。ジャックはジャックのまま死ぬの。オマエの中で、そして俺の中で、ジャックとしてセックスしてジャックとして死ぬんだよ

 俺達は吊り橋の上で会ったんだ。だから……


 だから?
 だからなんだよシンジ
 だから違うのか?
 だからこれは本当の恋じゃねーのか?


「…佐田……秋佐田?」
 目を上げると深海が俺を覗き込んでいた。
「深海。吊り橋の上で会ってそこで恋をしたら、それは勘違いなのか?それは本当の恋じゃないと思うか?本物の恋じゃないと思うか?」
「良く分かんない、そんなん。勘違いとか本当の恋とか本物の恋とか、分かんない。そうじゃないかもしれないし、そうかもしれなし。でもでも、恋愛ってそんなモンじゃねぇの?」
「だよな」
「だと思うよぉ」
 深海はクスリと笑って俺を見る。
 その笑顔はやっぱりシンジに全然似ていなかった。
「俺、今すぐにでも会いたい奴がいる」
 俺はそう言って立ち上がる。
 雨はまだ降らない。
 俺の恋をまだ終わらせるわけにはいかない。
 俺の心臓が高鳴ったようにシンジも同じように高鳴っていたのだとしたら、それが例え如何なる状況で出会ったのだとしても俺達は同じように互いを見ていたのだとしたら、だったらシンジをジャックのままで終わらせるわけにはいかない。ジャックはジャックのままで、俺の中でシンジの中で死なせるわけにはいかない。
「その人に会いに行くの?」
 後ろから深海の声がした。
「いや、名前しか知らねーから興信所にでも行こうかと思ってる」
「興信所?未成年の依頼でも引き受けてくれるの?」
「知らねー」
「その探してる人、高校生?」
「多分」
「だったら苅田に訊けば?アイツのネットワークは凄いよ」
 俺は振り返って深海を見た。
「苅田は顔が広いから、同年代の人間探すならアイツに訊くのが一番早いよ。マジで」
 深海はそう言って携帯で苅田を呼び出した。俺は苅田なんかには頼みたくないのだが、すぐにでもシンジに会いたかった。なるべく早く、今すぐにでも。
 暫くすると苅田がやって来た。
 ヤギシンジと言う名の男を捜してくれと頼む。シンジは何処に住んでいるのかも学校に行っているのかも知らないし他県に住んでいるのかもしれないのだが、俺は今、「ヤギシンジ」は本名だろうとそれだけは確信している。
 苅田は黙って携帯でメールを送る。何度か操作してそれが終了すると、ニヤニヤしながら俺を見た。
「秋佐田、勝負しようぜ」
「なにを」
「将棋。オマエ、俺に借り作りたくないだろ?オマエが勝てばこの件に関して俺はタダ働き。俺が勝ったら…」
「オマエには負けねーよ」
 俺は笑って駒を並べた。
 そして並び終える前に苅田の携帯が鳴った。

 驚くべきことに、シンジは苅田によって簡単に身元が確認された。
 ここから2つ離れた市にある県立高校の生徒だった。

「会いに行く。苅田、勝負は明日にしてくれ」
 俺がそう言うと苅田はまたニヤニヤして手を上げた。岬杜に後ろから抱き締められている深海も「良く分かんないけどがむばってね〜」と手を振る。


 俺は会いに行く。
 学校を出て走って電車に飛び乗って一度乗り継ぎ電車から降りてそしてタクシーに乗ってタクシーから降りて。
 シンジに会いに行く。
 シンジは二度と会いたくないと言った。
 だが、俺は会いに行く。





 シンジが通っている高校に付くとまだ授業中だったので、休み時間になるまで校門で待った。校門の前で座っていると雨が降ってくる。 傘を持って来てなかったので濡れたままそこに座っていた。
30分程して授業が終わった鐘が鳴り、近くを通った生徒を捕まえシンジを呼んでもらう。
 シンジはなかなか来なかった。
 けれど俺は帰らない。雨がポタポタと身体を濡らすのだが、俺はそのままでじっとしていた。
 授業が始まる鐘が聞こえた。
 シンジはまだ来ない。
 俺はその間ただ雨に濡れて待っている。
 自分の心臓の音が聞こえた。





「……オマエかよ」
 張り付いた髪を掻き上げた時に声がした。
「俺だよ」
 俺は顔を上げて微笑む。
「俺はもう二度と会いたくないって言った」
「俺は会いたかった。ずっと会いたかった」
「バカじゃねーの」
「うん。バカだよ」
「俺は会いたくなかったし、二度とオマエには会いたくない。今度来たらケイさんに連絡する」
「いいよ」
「……」
 俺は立ち上がる。
「俺はオマエに惚れたんだ」
「俺達は…」
「確かに俺達は吊り橋の上で会ったんだ。だからこれは勘違いなのか?だからこれは、この俺の感情は間違ってると思うか?本物じゃないと思うか?」
「……」
「例えば今、雨が降ってないとする。ここがオマエの学校じゃないとする。俺とオマエはこうして会ってないとする。でもそう考えてみても、今は雨が降っているし、ここはオマエの通っている学校の校門の前だし、俺達は会って話をしてる」
「何言ってんだよ」
「結果の話。それが例え如何なる状況で出会ったのだとしても、どこでどんな状況で出会ったのだとしても、もう関係ないって話さ。俺達は出会った。そして俺はオマエに惚れた。それで良いんじゃねーの?」
「……」
「好きだよ」
「……」
「好きだ」
「……」

俺はその少し細い身体を抱き寄せ、開襟シャツの胸ポケットから覗く『それ』を取り出す。

「オマエの学校ってこんなん堂々と持ち歩いてて平気なのか?」
「平気なわけねーだろ。いつもは隠し持ってんだよ。さっき自習だったから、今はたまたまそこに入れてただけだ」

俺は『それ』の中身を確認し、またその細い身体を抱き締める。

「隠し持ってるって笑えるな」
「返せよ。『それ』は俺のだ」

俺は『それ』を元のポケットに戻してやる。

「この辺ってラブホとかねーの?」
「オマエ結局俺の身体かよ」
「だって俺濡れちまったし今すぐオマエを抱きたいし」
「授業ある」
「フケろ」
「我儘言うな」
「駄目。我慢できねー」
「……俺、腹減った」
「ホテルで食おうぜ」
「イヤ。寿司食いたい」
「オマエまた寿司かよ。ホテルで出前取ってやるから」
「イヤ。寿司屋のカウンターで好きなもん好きなだけ食いたい」
「分かった。んじゃ、ひと運動してから寿司屋ってのは?旨い店連れてってやるから」
「イヤ。その旨い寿司が先」
「ホテルで俺が寿司握るってのはどうよ?」
「バカ。絶対イヤ。寿司が先」
「ホテルが先」
「寿司」
「ホテル」
「寿司!」
「ホテル!!」

俺達は歩き出した。
2人で歩き出した。





シンジの開襟シャツの胸ポケットには、一本だけしかないラッキーストライクがある。







end




novel