最終章 5月半ばの晴天の下
「毒が入ってる」
苅田達に外してくれと頼み、2人が屋上のドアから出て行くのを確認してから珈琲を受け取った俺は、プルタブを開けてからそれを永司に突き出しそう言った。
永司は僅かに表情を強張らせたが、すぐに苦笑して首を振る。
「入ってないよ」
「お前が入れた」
「入れてねぇ」
「入れた」
「なら飲むな」
口元にまだ苦笑を浮かべているが、永司の目は笑ってない。
午後の授業が始まってからまだ数分しか経ってなくて、当然のように空はやっぱり5月半ばの凄まじい晴天。風は心地よく空には飛行機雲が引いた白い線が溶けるように消えかかっており、グラウンドからは新入生達がはしゃぎながら体育の授業なんぞを受けている。向こうの道路で下水管工事してるおっちゃんや兄ちゃん達は仕事を再開させてるし、どこかの芸術家もやる気をだして自分の作品と向き合っているかもしれん。
それなのに俺達は。
それなのに永司は、この広い世界で俺達が出会った奇跡に感謝もせず俺を見ている。
「飲むよ、勿論」
俺がそう言い冷たい缶珈琲をバカみたいに一気飲みすると、永司の口元からようやく笑みが消えた。
先程俺がそうされたように、今度は俺が試すような視線で永司を凝視してやる。それから先程俺がされたように、不意打ちのように永司の手首を力一杯握った。
永司は俺と違い何も動揺せず、俺の視線を真正面から受け止める。
俺の五臓六腑を駆け巡る永司の感情。
永司は感情を殺さない。
これは、わざとだ。
永司は伝えたがっている。
昨日の深夜に岸辺に電話をした時、アイツは俺にひとつの助言をくれた。
それは俺が考えもしなかった子供の話だった。
岸辺は、俺がライ麦畑で崖に向かって走っていく子供をつかまえ続けたとしても、つかまえた全ての子供を助けることは出来ないのかもしれないと言った。多くの子供は元のライ麦畑に戻って行くだろう。最後まで自分が崖に向かって走っていた事に気付かない子供もいるかもしれないし、俺に手を握られ、初めて自分の状態に気付き驚く子供もいるかもしれない。しかしどんな状況の子供も、その多くは、ほとんど全ての子供は、広大なライ麦畑に走って帰って行く。相手が如何なる精神状態であろうと俺の手にはそれだけの力があるし、その為の力なのだ。
だが中には、それを「拒む者」がいるかもしれない。
「切り立った崖の縁に立って下を見ていたら、羽が生えた天使がやってきて後ろから抱き締めてきた。振り向き輝いている美しい天使の顔を見たら、もっと死にたくなった」
人間は何千人何万人、何百万人何十億人もいるんだし、そう感じてしまうライ麦畑の子供だって一人くらいいるかもしれない、と岸辺は言った。そして、拒んでしまうその衝動は相手のその時の精神状態云々ではなく、その子供が生まれ持っていたモノなのかもしれないと。
それは姉ちゃんが教えてくれた「どうしても光から逃げてしまう生き物」の話と少しだけ似ているような気がした。
「俺の心を取り出せることが出来たら、お前どうする?」
俺は永司の手を握ったまま、捻じ切れた針金みたいに意地の悪い声でヒソヒソとそう言う。
「舌で舐めまわしてやる。超エロチックに」
永司は動じない。本当に腹が立つ。
「あとは?」
「大事にする」
「違うだろ?」
「違わない」
中に手ぇ突っ込んで、思いっきりかき回して壊してやる。
ハンマーでグチャグチャになるまで叩き潰してやる。
そう言ってくれればまだマシだ。それが永司の本音だろうから。
しかし、それでも永司のライ麦畑にいる子供は平然としてる。切り立った崖に向かって走っているわけでもなく、また蹲って泣いているわけでもないのだ。だから俺は永司が理解できないのかもしれない。こんな感情を内に秘めていながらも、子供は平然とそこに佇んでいるのだから。
「前にね、お前の中にあるライ麦畑に行ったんだ」
そこには…。
「知ってる。子供の俺がいたんだろ?」
そう。凄く暖かくて気持ちの良い風が吹いてる。見渡す限りの黄金のライ麦達が……。
ライ麦達。
風。
声。
子供の永司。
強い風が吹き目を閉じた時、今まで気付かなかった事がはっきりと頭を掠めて行った。「そうなんだ。そこに子供のお前がいて俺もいて。お前は大人みたいにしっかりした子供で、崖の方になんて行かないんだ。多分、今も崖の方向には歩いてないと思う」
永司のライ麦畑にいる子供は他の子供達と違って崖に向かって走ったりはしない賢い子供だが、イナゴやトンボを追いかけたり友達と遊びまわったり、がむしゃらになって太陽を追いかけたりドキドキしながら飛行機雲を見上げるような、また他の子供達のように泣きながら走ったり大声を上げながら怒り狂ったりするするような、そんな健全な子供ではない。
永司の中にあるライ麦畑には、生き物がいない。気配すらない。
永司はたったひとりであそこにいる。
「理解したい。お前の全部を」
それは俺の望みだが、永司を理解することが俺の使命であって欲しいと思う。
岸辺が言いたかった事は「拒む者」がいると言うことではなく、俺が思いもよらなかった者、想像もしなかった者、そんな者がこの世にはいるのかもしれないし、岬杜永司がそれなのかもしれないと言う意味なのだと思う。真田は以前永司を異形の者だと言っていたが、あれと同じ意味で。ただし、もし永司が拒む者だとしても異形の者だとしても、俺はこの男を理解しなくてはならない。俺が永司にとっての、この世でたった一人の理解者になるのだ。
そう感じた時永司の瞳に僅かな嘲りが浮かび、俺は一気に頭に血が上った。
愛していると心から言えた時に限って永司は俺を憎んでいるように、本気で永司を想っている時に限って永司はそれを否定する。
「今、無理だって思ったろ」
キリキリと頭の奥で音がする。不快で長く聞いていたら発狂しそうな音だ。
「何が」
「俺が理解したいって言った時、お前、無理だって思ったろ」
言葉を待ったが永司は何も言わなかった。
俺は拘束するように永司の手首を握り締めながらひたすら怒りを感じていた。
長い間黙ったままだったと思う。
永司に気取られないよう頭の中だけで何度も何度も深呼吸を繰り返し、自分が今何をすべきかをなるべく冷静に考えた。考えようとした。
人間には相反するふたつの感情があって俺にはそれが理解出来ないのだと、駅のプラットホームで蹲っていた子供は言った。そうなのかも知れない。俺には分からないのかもしれない。
だが、俺が永司を受け止める。
他の誰でもなく、俺が。
「吐き出せ」
キリキリと頭の奥で鳴り響いている音は、自分に対する警報なのかもしれない。
「何を?」
「全部。頼むから吐き出せ。大丈夫だから」
「だから、何を?」
絡み合う視線の中、永司の瞳が大きく揺れた。
コイツは、何がしたいんだ。
「あの日、もう逃げないからって言ったのに、そうやって決めたのに、お前が…他の誰でもないお前が、俺が本当に愛してるお前が俺を追い詰める!」
自分の呼吸が乱れてきたのが分かる。多分もう限界。いや俺はさっきからとっくにギリギリな状態なんだ。それなのに永司は俺に手を握らせたまんまで、わざとそういう事を俺にさせたまんまで、こうやって俺を試す。
5月半ばの晴天。バカみてーに幸せっぽい空の下で永司がまた冷えた瞳で笑みを浮かべた時、俺のどこかでコトンと何かが落ちた音がした。
俺は永司の手を離し、立ち上がって後ろの柵を飛び越える。
「愛情と同じくらいの殺意を感じるこの状態で、俺にどうしろって言うんだよこのバカが」
同じように立ち上がった永司が素早く腕を伸ばして来たが、俺はそれを叩き落す。
「答えろ。お前は何が言いたい。何を伝えたい。全て吐き出してみろ!!」
学校の屋上。空は生命の色。一歩下がれば俺は死ぬ。
でも永司が何も言わないから、俺は俺でこうやって追い詰めるしかない。
どうして俺が永司に殺意を抱かれなくてはならないのだ。
どうして俺が。
「こっちに来なさい春樹。危ない」
「嫌だね! 俺を殺したいんだろ? 俺がこの世から消えてなくなる事がどういう事なのか、テメーの腐った脳味噌に叩き込んでやる!!」
「落ち着いてくれ」
「うるせーバカ!! テメーの考えてることが実際起こしてやるんだ、テメーの望み通りにしてやるんだ! 有難く思いやがれ!!」
辛抱強く耐えて来たつもりだった。何がどうなっているのか分からない状態のままで、自分なりに何とかしようと思ってきた。
しかし永司は殺意を伝える。それが永司の一部なら、それに応えてやろうじゃねぇか。「永司、全部吐き出せ。テメーの抱え込んでること全部だ」
受け止めたい。
凄く愛してる。
強く強くそう感じてるのに永司はそれを否定するかのように口を閉じ、俺を見据え、首を振った。
「お前って凄い。温厚な俺を本気でキレさせる。殺せ。殺してみろ」
自分の鼓動だけが耳元で聞こえたが、俺は永司の鼓動が聞きたかった。セックスしてる時みたいに、永司の鼓動と息遣いを聞きたかった。
「良いからこっちに来なさい」
「俺が聞きたい言葉はそんな言葉じゃねぇ」
「危ない」
知ってる。
永司も、俺が何を言わせたいのか知ってる。
でも言わない。
互いに相手を鋭く見据えたまま、互いに黙った。
暫くその状態で粘ってみたけど、天気の良さも風の心地良さも俺の心も永司も、結局何も変わらなかった。
「なんでそう頑固なんだろうな、お前って」
無駄な所でさ。
知らなくてはならない事は山のようにあるのにも関わらず、ひとつの答えも分からないままだ。俺は捻くれた笑みを浮かべながら、ゆっくりと後ろに倒れた。
「春樹ッ!!」
永司が身を乗り出し、右腕を伸ばしてくる。
予想していた俺は全身の力を込めてその腕を叩き払い、空を仰ぐ。
五月半ばの空は何の抵抗もなく俺の視界を覆い、眩しく輝く傾きかけた太陽の中に一羽の黒い鳥が羽ばたいていた。
カクンと身体が揺れて飛びそうになっていた意識が戻ると、すぐに強く身体を校舎にぶつけた。見上げてみれば身を乗り出し血の気を失った永司が払われた右手で柵を、左手で俺の右手を掴んでおり、俺は眩暈がするくらい強く一気に上に引き上げられた。
そうだった。永司は両利き…本来はギッチョだ。
ちょっと笑ったら、思いっきり殴られた。永司に本気で殴られたのは久し振りだ。
「バカなことするなッ!!」
こんな風に永司に怒鳴られるのも久し振りで、俺はもう一度笑った。
「だってお前、何も言わないんだもん」
「だからって!」
「俺が消えるってどういう事か分かった?」
「分かってたよ、そんな事」
でたよ、「分かってる」「分かってない」の別バージョン。
俺達はどこでズレだしたんだろうってぼんやり思いながら、引き上げられたまま屋上に寝そべると、隣で永司がズルズルと座り込み頭を抱えた。
「もう二度とこんなことはしないでくれ」
心配したんだなって、驚いたんだなって、相当焦ったんだろうなって今更思う。
俺のこと殺したかったくせに。
「お前の隣で安心して眠りたい」
頭を抱えて蹲っているその腕を引くと、永司は一息吐いてから俺の隣に寝転んだ。
二人でこうやって学校の屋上で寝転んでいるのも悪くないと思う。例えこれが雨の日でも雪の日でも地球が爆発する30秒前でも、学校の屋上で二人で寝転んでるのは悪くない。
「安心して良い」
永司の声に小さく笑った。
「いつか何があったか、何を抱えてるのか話して欲しい」
「分かった」
永司が即答したから、その「分かった」は嘘っぽいなと思った。
屋上の扉が音を立てたので視線をやると、今回も何かを求め、何も見つけられずに戻って来た暁生が立っていた。
「テメー等ナニしてんだ?」
どこかから戻ってきた直後の暁生はいつもギラギラしている。どう足掻いても俺の求める答えを永司が口にしないように、コイツはコイツでどこに行っても何をしても足りてない。
「日向ぼっこ」
暁生の質問に簡潔に答えながら、俺はひらひらと手を振った。
暁生が側に寄って来て煙草を強請ったので、俺は寝転んだままポケットから煙草を取り出して暁生の口に咥えさせ、腕を伸ばし炎の大きさを最大にして百円ライターで火を点けてやった。
「どこに行っていたんだ」と訊ねると、暁生はまるで自分が望んで行ったわけじゃないんだって文句を言いそうな顔で、ボソリと「ベネチア」答えた。ウラル山脈だと思ってたけど違ったようだ。
暁生の身体は今日も太陽の匂いがする。
「真田に会った?」
「まだ。ここかと思って来たんだし」
ギラギラしてる暁生はそう言ってから口を閉じた。俺は寝そべったまま暁生の膝頭に指でへのへのもへじを描き、暁生が咥えている煙草の灰が長くなったり短くなったりするのを見ていた。
気付いた事。
暁生は真田に会ってからは、以前のように旅から帰って来ても「ここに帰って来たくはなかった」とは言わない。だからと言って旅の最中ここに帰りたいとは思ってないだろうし、コイツの場合いつ旅の途中で野垂れ死にしてもおかしくはない。でもそれはそれで良いような気がした。以前のように求めるものが見つからず、その鬱憤をたらふく抱えて「足りねぇ」と俺や苅田に殴りかかってくるよりは。
暁生は変わった。多分、皆こうやって変わっていく。
俺と永司も。
煙草を消してから暁生は俺と永司を一瞥してから立ち上がり、ドアに向かって歩き出した。
「暁生」
「あー?」
「仔猫の名前決まった?」
「決まったけどお前等また文句言うから教えねぇ」
暁生は振り返らず、面倒臭そうにそう言いながら去って行った。
それから俺と永司は学校の屋上で寝っころがったまま幾つかの小さな話をした。
まずは暁生の話。次は五月の空の話。次は会話についてで、最後はまた暁生のこと。
殺意を剥き出しにして、永司は俺に何を伝えたかったのだろう。
いつか何もかもを話してくれる日が来るだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら喋っていたら、永司の腕に引き寄せられた。
「こっちは死にかけたお前のことで頭が一杯なのに、お前は南とばっかり喋ってる。それが終わったと思えば今度は南の話ばっかり」
珍しくイジケ気味の永司の声に笑い、俺はその背中に腕を回す。
「永司ぃ。真田と俺ってどっちがお前のこと理解してると思う?」
「南の話の次は真田かよ」
「どっち?」
「春樹」
「有り難う。でももっとちゃんと理解したい。泣きそうなくらいそう思ってる」
「知ってる」
俺と永司は身体から心の底まで理解し合った過去がある。俺達は溶けたんだ。俺のずっとずっと深い場所、俺の中にある深い深い海の底でひとつになった。そこは意識の底。記憶の底。心の底。全ての俺の底。
しかしあれからたった半年で、俺達にズレが生じた。
ズレてるから苦しいけど、大丈夫。永司の腕も身体も温かい。まだ大丈夫だ。
「ちょっと寝る」
そう呟くと、暫しの沈黙。
「お昼寝する。安心して良いんだろ?」
「良いよ」
永司は即答したけど、今回の即答は信じる。
5月半ばの晴天の下、俺は永司の腕に抱かれ目を閉じた。
end